おはようおかえり

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「おばあちゃんに会いに行こうよ」  と葵が言った。 「厭厭、京都の冬はとても寒いんだよ。葵ちゃんは、まだ知らないね。それにおばあちゃんだって毎年のすぐき漬けで忙しくしているかもしれない」 「お兄ちゃんなんて大嫌い」 「葵ちゃんはおばあちゃん子だね。そしたら上賀茂さんの散り紅葉もきれいなことだし、行ってみようか」  京助は年の離れた妹の頼みならなんでも叶えた。それはむかし、おばあちゃんが京助にしてくれたことだ。しかし今ではどうにも気まずい思いがある。それというのも、京助の長い浪人生活にあった。及第するまでは決しておばあちゃんには会わないといった不了簡が、ニ、三年の空白を二人に与えた。しかし今日は妹の頼みでもあるし、上賀茂さんの紅葉を観るために行くのだといけずを言いながら、それでも道中、久しく見ない祖母の顔を思うと、どうにも赤くならずにはいられなかった。 「お兄ちゃんの顔、紅葉みたいだよ」  葵は文才があるようで、それが京助を朗らかにさせた。 「忍れど(注1)の短歌のように、葵ちゃんには隠し事ができないようだね。お兄ちゃん、本当はとてもこわいんだ。でもね、それよりもおばあちゃんに早く会いたいな」 「おばあちゃんにもそう言ったらいいのに、大人って変なの」 「葵ちゃんは、いつまでも子供のままでいたいの?」  ……葵は黙考しながら啞の花のように黙ったまま寝てしまった。 「まだ子供だね」  京助は、ふふふと咲った。       ⁂  山粧う晩秋の船岡山の南側に着いたのは、電飾灯る入相であった。秋の夕日が古い町屋の瓦を若紫色に染めて、薄暗い路地にさえも、その光をふり投げていた。 「お兄ちゃん、もう着いたの? お腹すいちゃった」  葵は、目を擦りながら甘えた声で言った。 「もうすぐ着くよ。家に着いたら、おばあちゃんの作ったすぐきを食べようね」 「ねえ、お兄ちゃん覚えてる? むかしおばあちゃんと三人で船岡山に登ったこと」 「覚えているよ」  京助は、柔和な声で言った。 「船岡山は小さな山だけど、私の一番すきな山なんだ。空気がとても澄んでいて、山頂から手を伸ばせば届きそうなほど近くに私の好きな町があって、ほら、おばあちゃんが教えてくれた秘密も……」  と言いかけたとき、路地から手を振るおばあちゃんを見つけた。葵は車を降りるなり、秋の風のようにさっと駆けていった。僕も子供のようにおばあちゃんに駆けていくことができたらどんなに幸せなのかな? と独り声にならない声を発した。 「あ」  と、どこか懐かしい声が聞こえた気がした。 「京ちゃん、京ちゃん、こっちこっち」  幼馴染の葉ちゃんが、おばあちゃんの後ろから手を振りながら駆けてきた。 「京ちゃん、京ちゃん、ずっとずっと会いたかってん。京ちゃんのおばあちゃんから電話きて、京ちゃん帰る言うから、今日は京ちゃんの好きな阿闍梨餅(注釈2)も買おて、そんでそんで」  葉ちゃんの早口は昔から変わらず、とても懐かしかった。 「葉ちゃんは素直やなあ。会いたい言うん恥ずかしないん?」  京助にとって、言葉を素直に伝えることほど六ずかしく、おそろしいものはなかった。 「京ちゃん、京ちゃん、会いたいときに会いたい言わんほうが恥ずかしいんちゃうの? 京ちゃんもうちやおばあちゃんに会いたかったから来たんやろ?」 「せやけど、おばあちゃんが恕してくれるかずっとこわくて」  京助はそう言いながらおばあちゃんを見た。葵は空腹のせいかもう家の中に入ったらしく、遠くから笑って僕を見るおばあちゃんだけが、秋蝶のように暮れの光に揺れていた。 「おばあちゃん、元気やった? 僕、——ずっと会いたかったよ」 「アホちゃうか。どないしはったんやろかこの子は」  そう言いながら背中を押すおばあちゃんの手は、少し震えていた。       ⁂ 「すぐきわな、息が白うなったときが旬言わはりますけど、孫と食べるときが一番おいしいもんやなあ」  京助はおばあちゃんの笑顔を見ると、煙のようにすっと体が軽くなったような気がした。 「ねえ、おばあちゃんは私とお兄ちゃんとどっちがもっと好き?」  葵の無邪気な質問に京助はしょげちゃって、煙と共に魂さえも抜けたような、そのようなカラッポの気持にくすぐられた。 「葵ちゃんはむかしに船岡山でおばあちゃんが教えた秘密をもう忘れはったんやろか?」  葵ははっとなって、今ではくるりと変わってすました表情を見せている。 「明日、みんなで船岡山に行こうよ、京ちゃんの好きな紅葉も色づいてる頃やろし」  葉ちゃんは記憶力お化けのようで、京助よりも彼自身のことをよく知っていた。友は私を唆すものだけれど、幼馴染とは仄めかすものではないかしら? と京助は思った。 「葵ちゃんとおばあちゃんも行くよね?」 「しゃあないなあ、行きましょか」  おばあちゃんは言葉とは裏腹にとても嬉しそうに言った。京助は自分も知らない間におばあちゃんに似てきたようで、どこかおなかの中におばあちゃんがもう一人住んでいるような気がした。おばあちゃんの温かい笑顔、それが京助の体をぽっと熱らせて、京助の顔はまた一層赤くなった。       ⁂  清少納言の枕草子には、岡は船岡(注3)と記されていて、凡そ千年の星霜を経た現代でも、旅人の心を収攬してやまないうつくしさがあった。それは単なる視覚的美に依るものだけではなく、歴史の帯同に拠るものでもあった。  ここに一挿話が思い出される。むかし、京助と葵は祖母に枕草子をよく読んでもらったことがあった。その度に葵は『おかし、おかし、清少納言さんも甘いものが好きなんだよ』と嬉しそうに欣喜雀躍していた。『でも葵ちゃん、おかしじゃないよ! をかしと書いてある』と言うと大泣きしては祖母の膝の上に座って京助を睨んだものだ。  今では船岡山にそのような言霊が宿っているようで、まさにいとをかしなのであるけれど、船岡山のうつくしさは、積み重なる歴史の上に鎮座したものであり、彼らの歴史もまた、幾度となくこの場所に堆積するのである。  四人は息を切らしながら、愈愈山頂へとたどり着いた。山道の黄、朱色に染まる葉はさまざまな形をしていて、山頂に着いた頃には、葵の手の中には秋が掴まれていた。 「この葉っぱは、お兄ちゃんに似ているからあげる。お兄ちゃんの頬っぺたと同じ色」  葵は立体的にすこし膨れた、紅い葉を京助に渡した。おばあちゃんには金色の葉、葉ちゃんには薄い黄色の葉を渡したらしく、唐辛子のように尖った葉は葵のものになった。 「葵ちゃんはむかしの秘密を覚えてはったみたいやなあ」  おばあちゃんは言って、優しい相好を京助に向けた。そういえば京都に来るときに葵ちゃんが言っていたっけ? でも秘密ってなんだったんかな? と京助の小さな声は秋風に消されてどこかに吹き飛んでしまった。風の流れる方向には、京都のうつくしい町並みが広がっていて、水色の空には鰯雲が泳ぐように浮かんでいた。 「まあいっか、またすぐにおばあちゃんに会いに来よう。そのときにはきっと秘密を聞かなくちゃなあ」  おばあちゃんの目にうつる京助は、水に宿る秋の月のように濡れていた。 注1 百人一首第四十番 平兼盛より 注2 京菓子司 満月のお菓子 注3 枕草子二三四段より
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