三月十四日のチョコレート

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 部屋に戻り、カバンから取り出したのは板チョコ。一か月前に結斗からもらったものと同じ。 「お返し、ってこと?」 「そーだよ」  部屋の真ん中で突っ立ったまま、じっと手元を見つめる結斗。そんな驚くことかよ、と呆れながらベッドに腰掛ける。並んで座るのが定位置だから、自然と端に寄ってしまう。 「俺だけ?」  結斗が顔を上げる。嬉しそうで恥ずかしそうでくすぐったそうな表情。この顔を見たくて、俺は用意したのだと思った。  今朝のクラスメイトとのやり取りが蘇る。  ――じゃあ今年は本命にだけあげるってことか。 「……本命、だからな」 「うん、ありがとう」  声を弾ませた結斗が隣に座ると、ベッドが軽く軋んだ。いつもよりも少しだけ近い、肩が触れ合う距離。たったそれだけのことに俺の心臓まで弾みだす。 「食べていい?」 「――うん」  視線を合わせることなく答える。というかどこを見ていいのかわからない。この一か月、それまでもずっと、当たり前に隣にいたのに。なんで今さら緊張してるんだろう。  そう思って、「変わった」ことに気づく。  隣で響く乾いた紙の音に、驚くかな、という期待を重ねる。が、聞こえたのは落胆ともいえる暗い声だった。 「……なんでこっちなの?」  え、と振り返れば、怒っているような悲しんでいるような、それでいて嬉しさもあるような複雑な表情。 「外の紙ならずっと持っていられるのに、こっちだと破らないといけないし、チョコ付いてるからとっておけないじゃん」  外側を取られ、薄い銀色に並ぶ文字。昨日自分が書いたもの。ずっと伝えられなかった、たった三文字の言葉。 「見えるところに書くわけないだろ」 「内側があるじゃん」 「横から取って戻したから開けてないし」  でも、と続けようとした結斗を「で?」と睨んで遮る。 「返事は?」  隣り合った手がいつのまにか重なる。 「……俺も好きだよ」  音よりも息に近い声が落ちてくる。  うん、とか。そっか、とか。どう答えるべきなのかわからなくて、結んだままの視線を解くこともできなくて、ただじっと結斗の顔を見つめた。  向かい合う体が温度を上げる。重なるだけだった指が絡まる。薄い結斗の唇が動く。 「キスしていい?」 「っ、いちいち聞くなよ」 「聞かなくてもいいの? ほんとに?」  いいに決まってる、と言いかけ、本当にそれでいいのか、と迷う。聞かれるのは恥ずかしいけど、場所を選ばず迫られても困る。この場合なんと答えるのが正解なのか。という逡巡を結斗の声が止めた。 「奏多」  それは何度と聞いたはずの名前が初めての音を纏った瞬間。  ふっと空気が揺れたかと思えば、すべてを閉じ込めて止まる。見えていた部屋の景色は消え、焦点の合わないまま結斗の顔で塞がれる。あ、触れてる。そう認識した瞬間、離れた。まだ近くにある唇が小さく動く。 「時間切れ」 「だって」  どう答えればいいのかわからなかったから、という言い訳を結斗がもう一度塞いで止めた。すぐに離れ、でも息が重なる距離で、結斗が言う。 「違うよ。俺が限界だったってこと」 「そんなの」  俺もだし、と答えた声は触れ合う熱に溶けていった。  昼間の熱を忘れたような冷たい風が木々を揺らす。  いつもなら玄関で見送って終わりなのに、交差点まで来てしまった。今までずっと一緒にいたのに。明日も一緒に登校するのに。この離れ難さは何なのだろう。 「そうだ、こっちにも書いてよ」  結斗がカバンからクリアファイルを取り出す。中には丁寧に折り畳まれたチョコレートの紙。まだ言うか。 「やだよ」 「なんで」  捨てたくない、と渋る結斗から板チョコを取り上げ、容赦なく銀紙を剥がしたのが数時間前。「せっかくのラブレターが」と落ち込む結斗に、ほい、と剥き出しのチョコレートを差し出せば、悔しそうな顔で口に含む。美味しい、と泣きそうな声で言われ、笑ってしまった。 「……一回」 「え?」 「年一回って決まりなの」  そんな、と呟いたあと。 「ん?」と首を傾げ、その意味を理解したのだろう。「じゃあ、次からはこっちに書いてね」と念を押される。 「……わかったよ」  来年のことは来年にならないとわかんないけど、とこっそり心の中で呟けば、ファイルをしまった結斗が「奏多」と手を伸ばした。  静かな住宅街の夜。チカチカと点滅する青信号。外灯よりも白い木蓮の花。自分たち以外誰もいない、と気づいて、同じだけ手を伸ばす。きゅっと握り合った手は少し冷たい。 「来年は俺も書くね」  落ちてきた結斗の声は春の風に重なり、毎年伝え合うであろう言葉が自然とこぼれた。  ――好きだ。
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