セーブポイント・モラトリアム

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 まずは、待ち侘びた幸福が訪れた。  苦節10年。もう諦めようかと話していた矢先に授かった新しい命に、俺と妻は喜びに打ち震えた。  夢のような時間だった。最初、葡萄一粒ほどの大きさだといわれた我が子が、少しずつ人の形をなしていく過程が楽しみで仕方がなかった。  そして産まれてきた息子と初めて対面した時、俺は人目も憚らず号泣した。駆け巡った感情は、安心したとか、嬉しかったとか、そんなありふれたものではなかった。  その瞬間、俺は初めて確信できたのだ。自分の人生には価値があったんだ、と。だって、俺が選んだこと全てに意味があったから、この子は生まれたのだから。  新しい日々が始まる。俺たち家族の物語は、着実に次の章に進んでいく。これからも自分なりに、ゆっくりと歩いていこう――そう思っていたんだ。  余命を宣告された時、今度は涙は流れなかった。怖くはなかった。ただ、寂しかった。お気に入りだったゲームの続編の噂が立ち消えたときみたいに、軽薄な諦観が心を支配した。 「それがまさか、セーブポイントを見つけることになるなんてな」  長い逡巡の末に、俺は言った。本当に、人生なにが起こるかわからないものだ。 「抜き差しならぬ事情がおありのようですね……。しかし、セーブポイントを見つけることができた点、貴方様は幸運といえるのではないでしょうか?」 「そうかもしれないな」  セーブしよう。迷う必要なんてない。  ギリギリまで痛みを抑える治療は可能だと、医者にも言われている。終わらない世界の中で、俺は人生で一番幸せな時間を何度だって繰り返すことができるんだ。  スマホの画面に目を落とす。表示されたレトロなメッセージウインドウをじっと見ていると、ふと幼い日の思い出が蘇ってきた。  RPG(ロールプレイングゲーム)が大好きだった。主人公の姿に自分を重ねて、魅力的な物語の中で生きることに夢中だった。  だからこそ、最後のセーブポイントに辿り着くと、いつもそこから先へ進めなくなってしまった。冒険を……物語を終わらせてしまうことが惜しくなってしまうのだ。  エンディングを迎えてしまったら、自分はこの物語から離脱せざるを得ない。その寂しさを受け入れることができなかった。  だから俺は、最後のセーブポイントを何度も利用した。レベルを上げて、宝物をコンプリートして、時には始まりの町へ舞い戻って、できる限りの猶予期間(モラトリアム)を尽くした。だけど、その時間になんの意味があったのだろう。そうやって、時間の檻に閉じ込められた主人公は、世界を救うことなく永遠を彷徨うことになるというのに。  きっと、終わらない物語に価値はない。終わりを受け入れるからこそ、物語はうつくしい。人生を物語と呼ぶことがあるのなら、同じことが言えるのかもしれない。  ……俺は、自分の人生を無価値なものへと変えてしまってもいいのだろうか。
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