「、」のない王将

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僕は今、目の前の将棋盤とにらめっこをしていた。 なんだよこれ。 「なんだか……すみません」 相手のか弱い声が耳まで届く。 僕は、別に将棋が弱いわけではないと思っていた。 だけど……。 春野ちゃんが強すぎるんだよッ! 僕は下を向いたまま、いつの間にかしびれた足を触った。 「ごめんなさい、春野ちゃん……。降参ですッ!」 相手の春野ちゃんは少し悲しそうな顔をしてそれでも、笑った。 「いえ、こちらこそごめんなさい…。将棋の相手なんか頼んじゃって」 片目を前髪で隠した春野ちゃんは、メガネを上げる。 「それでは、片付けましょうかね」 僕は、将棋盤を持ち始めた春野ちゃんを助けようと立つ。 「ッいてててて……!!!」 「大丈夫ですよ。金野さんは休んでてください」 私、こう見えても力持ちなんですから!と言い残して足音は消えていった。 僕は、ゆっくりとすわると今度はあぐらをかいた。 もう二度と正座なんてしたくない……。 と、さっきまで春野ちゃんが座っていた場所に王将が落ちていた。 それも「、」がないやつ。 春野ちゃんが使っていたものかな。 僕は、少ししびれが収まった足を無理やり歩かせた。 そして王将をひろう。 春野ちゃんは、公民館の奥の方まで将棋盤を片付けに行ったようだ。 一人で使うには少し広すぎる自由ルーム。 ここでは今日のように将棋や、オセロなどをして遊べる。 公民館の中にあって、なんでも使ってOKだ。 春野ちゃん、早く戻ってこないかな。 王将を手のひらで転がしながら座っていた。 「金野さん、ごめんなさい遅くなって…」 春野ちゃんが慌てて走ってきた。 足音がないので少し驚いた。 「あ、春野ちゃん!」 僕は春野ちゃんに駆け寄ると手の上に王将をのせる。 「これ…落ちてたよ。さっき使ってたやつかな」 春野ちゃんは嬉しそうに王将を握った。 「ありがとうございます……!」 ッ…くそ…かわいいな……。 春野ちゃんはスカートのポケットに王将を入れた。 「後で直しておきますね」 メガネが少し下がっている。 僕は、どうしようもなくなって春野ちゃんの手を握った。 少し驚いたように僕を見つめ返したきたその目は、少しつり上がっていた。 春野ちゃんってツリメだったんだな、なんて考える。 「あの、僕春野ちゃんのことが…!」 好き、その言葉は目の前が暗くなることで遮られた。 「ッ……!」 息を飲んだ音がした。 僕のか、春野ちゃんのかわからない。 停電…したようだ。 「春野ちゃん、大丈夫?」 僕は手を一層強く握る。 「金野さん、大丈夫です。でもちょっと……痛い…」 僕は強く握りすぎていた手をパッと離した。 「あ…ごめん」 離した手はどこに行ったのかわからない。 暗闇に消えた。 僕はその場に座り込むとゆっくり話しかけた。 「春野ちゃん、さっきの話の続きなんだけど」 てっきり、春野ちゃんの声が帰ってくると思ったので驚いた。 返事をしたのはスイッチの音だった。 パチッ。 視界がぱっと明るくなる。 どうやら、停電は治ったようだった。 「あ、治ったみたい」 かなり早かった。 僕は、ゆっくりと横を向く。 そこには誰もいなかった。 さっきまで握っていた手のぬくもりだけが残っている。 「春野ちゃん…!?春野ちゃん!?」 誰も返事をしない。 僕はその場で崩れ落ちると、ゆっくりと放送を聞いた。 「只今停電が起こりましたが、原因はわかっておりません…」 三年後 僕はもう、高校生になった。 重いリュックサックを背負いながら自電車を漕ぐ。 桜が時電者のかごにかろうじて引っかかっているのを見て春野ちゃんを思い出した。 公民館の日から春野ちゃんは消えた。 教室にも来ない。 部活にも来ない(将棋部)。 公民館にも来なくなった。 不思議なことに図書館の返却期限当日に本は返されていた。 春野ちゃんが消えたあと、本を返しに行ったのだろうか。 バシャッと水溜りをタイヤが踏む。 道路に写ったタイヤの模様はその後ゆっくりと消えていった。 僕は一度自電車を止めるとリュックを下ろす。 のどが渇いたのだ。 時計をさり気なく見たが、まだ学校には間に合いそうだ。 僕は近くのベンチに座ると、虹を見る。 青い空にかかったきれいな虹だ。 と、女の子が一人こっちを見ている。 どこか見覚えのある顔だ。 「っ春野ちゃんっ!?」 口から言葉が滑り落ちていた。 春野ちゃん、そう。あの頃の春野ちゃんだ。 ちっとも成長していない。 女の子は言った。 「桜お姉ちゃんは、病気で死んじゃったよ?」 桜、それは春野ちゃんの名前だ。 僕は女の子に近寄る。 「え…」 女の子は少し寂しそうな表情をすると手紙を僕に渡した。 「これ、桜お姉ちゃんから。金野さんっていう人に渡してだって。金野さんだよね」 僕は大きく何度も頷いた。 女の子は安心したように笑うと、そのまま走り去っていった。 僕は手紙を破るように開ける。 そこにはあの春野ちゃんからは予想もできないガタガタの字でこう書いてあった。 「あの時消えてごめんなさい。この手紙を読んでいるということは私はこの世にいないんですね。金野さん、好きでした」 それだけの言葉でも、僕は涙腺が解けた。 あの頃の思い出が蘇ってくるようだ。 僕は涙を制服で拭くとそのまま自電車にまたがる。 勢いよく漕いだ自電車は水をはねかす。 その時に僕は気づいていなかったんだ。 女の子のポケットから「、」のついていない王将が落ちたことに。 完
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