第9話.特殊試行実験体の少女

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 ―四年前。  成世も雲十も、そして当然怜也も、まだ運営人側にはいなかった頃。  組織の前会長の息子であり、その頃から既にゲームの運営に携わっていた当時十六歳の彼は、その日も四人の研究員を引き連れ、仕事場である二階の管理室に向かおうと施設内を歩き回っていた。  ……そんな時。 「いやぁっ……!!やだ、ゃだあ…っ……!!や、おねがい離してッ……はなしてよぉっ……!!」  突如。  どこからか、この施設では到底聞き慣れない、酷く甲高い少女のむせび泣く声が広い廊下に響き渡った。  まるで癇癪を起こした幼い子供のようなその声は、大人ばかりのこの組織では、普段聞くどころか、今まで耳にしたことすらなかった。  だがすぐに少女の泣き声に伴い、数人の若い男たちの罵声が聞こえてくる。  眉をひそめ、真堂がそれらの騒音の発生源を探ってみると、すぐさま廊下の奥で数十人の人だかりができているのを見つけた。   「おいっ、誰かこのガキどうにかしろ!」 「いい加減にしろよ!邪魔だっつってんだろうが‼」 「やだ……やだぁっ‼離して!お願いっ、おねがい……ッ、やめて、なんでもっ……なんでもするからぁあぁあっ……‼」  どうやら少女は、数人の男に取り押さえられているらしい。  よく見ると数十メートル先の廊下で、人混みから少し外れた場所で二、三人の男に体を押さえつけられながらも、逃げ出そうと暴れている小さな子供の姿があった。  彼女は必死に抵抗しようと、男たちの腕の中でじたばたと手を動かしながら、その可愛らしい顔を原形をとどめないほどぐしゃぐしゃにして泣き叫ぶ。 「おねがいっ、おにいちゃんを棄てないで‼」  雪のように真っ白な髪を振り乱し、少女は人混みの中に入ろうと精一杯手を伸ばす。  しかしそんな彼女の主張も虚しく、真横から少女を押さえつけていた男の一人は、いつまでたっても収まらない彼女の暴動にとうとう嫌気がさしたのだろう。 「……っ、うるせえっつってんだろうが‼」 「……!」  男はちっと大きく舌を打つと、手っ取り早く少女を黙らせようと、彼女に向かって片腕を振り上げた。  不意に少女の体に大きく影が覆いかぶさり、気づいた彼女の肩がビクッと大きく震え上がる。  男の拳が、少女の顔を殴りつけようとした、その時。 「何の騒ぎだ」 「……⁉真堂様…⁉」  ぱし、と。  真堂の左手が、勢いよく振り下ろされた男の腕を受け止めた。  それと同時に、数人の研究員を連れた真堂が背後から静かに現れる。  漆黒の黒髪に、赫焉と輝く緋色の瞳。  その容貌が、噂に聞く前会長の息子である真堂新だと気がついたその場の大人たちは一瞬騒然としたあと、すぐさま空気を緊迫させた。  ぱっと男から手を離し、真堂はしゃがみ込む彼を軽く見下ろしながら言う。 「状況を説明しろ。何があった」 「そ、それが、その……特殊試行実験体が、故障を、」  唇をわななかせ、顔を真っ青にしながら男は答える。  彼がおそるおそる指した指の方向を辿ると、そこには人混みの中で倒れる、まだ若い、一人の青年の姿があった。  美しい桜色の髪を持つその青年は、よく見ると息はしており意識もあるものの、瞬き一つせず、まるで壊れた人形のように、その額に垂れた前髪から虚ろな瞳をのぞかせているだけだった。 「……寿か。それで?」 「それで、処分しようとしたら、そこの……特殊試行実験体の妹を名乗るガキが、邪魔してきて…」  ちらと真堂に視線を向けられ、床に座り込んでいた少女の喉から、ひくりとしゃっくりに似た、おびえた音が鳴る。  近くで見ると、ついさきほどまで泣き叫んでいたその子供は十歳前後の小柄な少女で、組織の研究員であることを示す白衣すら着ていなかった。  少女はじっと自身を見つめる真堂の視線にカタカタと体を震わせながらも、ぽろぽろとその兄と同じ色の瞳から涙を零れさせる。  その横で、男は真堂に弁明を続けた。 「特殊試行実験体は、寿命が尽きたら即刻処分する決まりです。我々は規則に従おうとしただけなのに、この子供がそれを止めようとするから…‼」 「……」  男の主張を脳の片隅で聞き流しながら、真堂は少女を見つめ続ける。  ……特殊試行実験体には身体的な生命の終わり以外に、寿が存在する。  しかもその期間は非常に短く、平均は三から四年。  長くても、五年が限度だった。  ゆえに消耗が激しく、組織の特殊試行実験体は必ず最も人口の割合が大きいβ性を持つ人間が担うと定められていたのだが。  そして、何より。  短い寿命を終えた特殊試行実験体は、組織の規則に従い、となる。    ……この少女はそれを避けるため、必死に抵抗していたのだろう。  真堂は彼女に体を向け、静かに尋ねる。 「……君がこの特殊試行実験体の妹というのは本当か?」 「……」 「……ゆっくりでいい。俺はただ状況を把握したいだけだ」  声色は相変わらず硬いものの、敵意はないことを示すと、少女にもそれが伝わったのだろう。  彼女はしばらく黙り込んでいたが、何度か苦しげに息を飲みこんだあと、蚊の鳴くような、そしてひどくかすれた声で、しかしはっきりと「………ほんと、ぅ、…です……」と答えた。  真堂は心の中で相づちを打ち、次の質問を投げかけようと口を開く。  しかしそれよりも早く、目の前の少女は突如床にうずくまったかと思うと、額を地面に押し付け、今にも消え入りそうな声で真堂に嘆願した。 「……ぉ、おねが、い…しま……あに、を………おにいちゃ…を、ころさないで、くだ…さ、ぃ」 「……!」 「わたしが……わたし、が、代わりに……なりま、す…。おにいちゃん、の代わり、に……私が、特殊試行実験体になります…から、」 「……」 「…だから……だから…せめ、て…私がこわれる、まで…、は………あに、を、しょぶん……するのは、まって………くだ、さ…」 「…………」  何度も息を詰まらせながら、顔も上げず、少女は真堂に懇願し続ける。  過呼吸のような状態になり、彼女の喉からは、既にひゅーっ……ひゅーっと異常な音が鳴り響いていたが、それでも少女はまるでうわごとのように「…おねがいします……おねがいします…」という言葉を繰り返すことをやめなかった。  しかし。  真堂が何よりも驚いたのは、兄の代わりに特殊試行実験体になると言った彼女の提案だった。  普段は微動だにもしない、真堂の目が一瞬大きく見開かれる。   「……」  ……良くも悪くも、この少女は聡明だったのだろう。  何かを差し出さなければ自分の望む要求は通せないということを、幼いながらに理解してしまっている。  何の対価もなしに得られるものなど何一つないという残酷な現実の仕組みを、既に不憫なほどに知ってしまっていた。  兄の代わりに、自分の身を差し出すことで。  すぐさま廃棄するのではなく、という期限付きの条件を提示することで。  その小さな体では到底受け止められるはずのない、激しく沸き立った怒りと悲しみを、これ以上あらわにすることもなく。 「……」  真堂はただ黙って、床で嗚咽を漏らし続ける彼女を見つめ続ける。  しかし、彼の背後にいるその他大勢の大人たちは少女の哀願にも耳を貸そうとすらしない。  男の一人がはっと鼻を鳴らし、真堂の後ろで耳打ちする。 「真堂様。こんな子供の言うことになんて耳を貸す必要はありませんよ。我々はただ組織の規定に従い、用済みとなった彼を処分すればいいのです」 「……」 「おいお前ら、何してる!さっさとこの廃棄品を下へ運ぶぞ!真堂様の手を煩わせるな!!」 「……!!ま、まって……!!」  男の一声にぞろぞろとその場にいた大人が動き出し、異変に気づいた少女がばっと青ざめた顔を上げる。  少女は咄嗟に制止の声を上げるも、男たちはそれを気にもとめず、倒れた青年の四肢や髪を乱暴に引っ張り、彼をどこかに連れ去ろうとしてしまう。  少女が再び悲鳴を上げ、彼女の喚き声と大人たちの怒声が重なり、回廊は再び喧騒に飲まれ始める。  真堂の視界の端で、「おにいちゃんっ……‼」と少女が悲痛な声を上げた。 「………おねがい……ひとりに、しないで………」 「……」  ぽろぽろと、少女のあどけない瞳から涙が静かにこぼれ落ちる。  ……この時自分は、どうしてあのような行動をとったのか。  それは、今でもわからなかった。  彼女を不憫に思ったからだろうか。  彼女が後に過去最良の特殊試行実験体となることを、その時から予感していたからだろうか。  ……それとも。  誰からも見捨てられ、一人泣きじゃくる幼い彼女の姿を、に重ねてしまったからだろうか。  理由は分からない。  ただその時。  ……気づいたら、口が動いていた。 「―わかった。いいだろう」 「……⁉真堂様⁉」  あまりに信じ難い唐突な真堂の言葉に、その場にいた全員に大きな激震が走る。  背後からどよめきと批判の声が上がる中、真堂はそれらを一切気にも止めずに言葉を続ける。  彼の傍では、驚いたように、しかしどこか救われたように、大きく目を見開かせている少女の姿があった。   「次の特殊試行実験体の役目は、彼女に与えるとする。兄の方は医務室に運んでおけ。あとで俺が様子を見に行く」 「しょ、正気ですか真堂様‼こんな子供の言うことを真に受けるなど‼それに、これでは組織の規範が、」 「これはゲームの運営を統括する俺が下した判断だ。異論は認めない」 「しっ…しかし……‼」 「わかったらさっさと仕事に戻れ。これ以上は時間の無駄だ」  横目に真堂に鋭く睨まれ、今まで騒ぎ立てていた大人たちは皆、ぐっと黙り込む。  一瞬で外野を黙らせた彼は、もう誰も反論してこないことを見計らうと、ばさりと白衣を翻しながら、もと来た通路に戻ろうと踵を返した。  途中、横で自分を見上げる少女と目が合い、彼女は一瞬びくっと肩を震わせる。 「ついて来い。これからの話をしよう」 「……!」  真堂は少女にそう言い残すと、振り向きもせず、すたすたと廊下を歩き去ってしまった。  取り残された少女はしばらくためらっていたが、それもつかの間。 「……っ」  少女は勢いよく立ち上がると、少し先でなびく白衣を着た真堂の背中に向かい、たっとつたない足取りで走り出す。  これが、のちに過去最良の特殊試行実験体となる少女真白と真堂の出会いだった。
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