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その時。
部屋の入り口から、少し間の抜けたような、ゆったりとした特徴的な男の声が響き渡った。
その声に、衣織の動きがぴたりと止まる。
「……?」
突如静かになった衣織を前に、カタカタと肩を震わせていた成世は、青ざめた顔のまま部屋の入り口の方へと目を向ける。
しかし、扉の前にいるであろうその人物の姿は、成世の位置からは衣織が影になってしまって見えなかった。
一方衣織は成世からそっと手を離すと、ゆっくりとそちらへ顔を向ける。
「雲竜」
「妬けちゃうなぁ、衣織。君はもっと誠実な男だと思っていたのに」
「やだな、誤解だよ。言ったでしょ、弟に会ってくるって」
「うーん、どうだろうねぇ。とてもそんなふうには見えなかったけど」
責めるような口調の反面、その男は愉快そうに微笑むと、くつくつと笑い声を嚙み殺した。
衣織が離れたことで、その人物を目視できるようになった成世は、はっと大きく息を飲む。
「……!」
そこには、兄衣織と同じ。
─出資者の一人である、蓮水雲竜の姿があった。
「……」
―蓮水雲竜。
雲十の六つ年上の兄であり、外界では有名なあの巨大財閥、蓮水家の現当主。
雲十と雲竜の実家である蓮水家は、主に金融、貿易の事業を中心とする国内でも指折りの資産家で、雲竜は五年前に事故死した先代に代わり、たった十八という若さで当主となった、前代未聞の若手当主だった。
流石、αだらけのエリート一家の嫡男といったところだろう。
しかし、その長身も、薄気味悪いほど常に浮かべている薄笑いも、弟の雲十とは似ても似つかなかった。
同じところがあるとすれば、それは蓮水家の者であることを示す、浅縹色の髪と瞳、そしてαの性を持つということだけだ。
「……ふふ、」
腕を組み、入口の扉にもたれかかるようにしてこちらを見ていた雲竜に、衣織は何がおかしかったのか、小さく笑い声をあげる。
成世の傍を離れ、衣織は次に雲竜の前に歩み寄ると、彼の白い首にするりと両手を回し、目を細めた。
「もう、嫉妬しないでよ。雲竜って、案外束縛強いタイプ?」
「まさか。私がそんな面倒な人間に見えるかい?」
「へえ……四年前、俺をこんな閉鎖的なとこに連れて来ておいて?」
「それは合意の上だったでしょう。それとも、私が君の同意なしに、無理やりここに連れて来たとでも?」
「んふふ。……うん、そうだね。悪かったよ」
今にも鼻と鼻がくっつきそうな距離で、衣織はさらに雲竜の体を引き寄せると、彼の眼前でふわりと優艶に笑う。
そして、次の瞬間。
成世の前で、彼らは唇を深く触れ合わせた。
「……ん、…んん……、…ん」
ちゅっ……ちゅく、ちぅ、と。
卑猥なほど激しい水音が、静まり返った会議室に大きくこだまする。
口が触れるだけの、簡易なキスではない。
二人は何回も角度を変え、舌を絡め、互いに唇を食み。
貪るような唾液の交換を、何度も何度も、長く、しつこいほど繰り返す。
「…ん……ん、」
「……」
……一瞬、何が起きたのかわからなかった。
懸命に目の前の状況を理解しようとするも、見たこともない実の兄の乱れた痴態と唾液が絡まり合う音に思考が遮断され、何も考えられなくなってしまう。
足が震え、心臓が脈打つ音がらやけに近くに聞こえていた。
……兄が、口付けを交わしている。
それも他でもない、あの蓮水の人間と。
「……」
……つまるところ、兄も一緒だったのだろう。
成世が雲十と関係を持っているように、衣織もまた、同じ出資者である雲竜と肉体関係を持っている。
そこに一定の感情はあるのか、ましてや二人がその関係に至ったまでの経緯など知る由もないが、彼らが単なる友人としての関係を築いていないのは明らかだった。
一瞬、肩に流すように編まれた美しい雲竜の長髪の隙間から、こちらを見る衣織と目が合う。
「……!」
死んだ父親と同じ、柔らかだけど美しい、切れ長の涼しげな目元。
それが成世を目にした途端、ふ、と立ち尽くす彼を嘲笑うかのように、一瞬だけ微かな笑みを見せた。
「……っ」
だが、すぐさま兄の視線は成世ではなく、目の前でキスを交わす雲竜に向けられる。
会議室には変わらず、耳を塞ぎたくなるほどのみだらな音が鳴り響いていた。
「……ぁ、」
「ッ!」
いたたまれなくなった成世は、突如衣織たちを振り切り、ばたばたと部屋を出ていく。
この時、既に成世の衣織に対する希望は、完全に砕け散っていた。
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