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「……っ、は…ッ…、はぁっ……」
施設の暗く、長い回廊を足早に歩く。
会議室を立ち去った、あれから数分後。
成世は、できるだけあの場所から離れようと、ふらふらとあてもなく廊下をさまよっていた。
「……ぅ、」
腹の底からこみ上げてきた嘔吐感に、咄嗟に口に手を押し付ける。
足がふらつき、思わず壁に手をついてずるずるとしゃがみこんだ。
「…っは……ぁ、う…」
……あれから、吐き気が止まらない。
まともに会話に取り合ってくれなかったこともそうだが、それだけではない。
兄が、関係を持っていた。
それもほかでもない、あの蓮水の人間と。
そして何より。
―実の兄に、襲われかけたこと。
「…ぅ……っ、…ぁ」
もし、あの時雲竜が来ていなかったら。
そう考えるだけでぞっとする。
雲竜が現れなければ、きっと成世はあそこで衣織に押し倒されていた。
単に成世をからかっただけなのか、本気で自分を襲う気だったのかは、それはいくら考えてもわからない。
だが、以前の衣織からは想像もできない、あのふけるような熱っぽい視線は、妙に成世の脳裏にこびりついて離れなかった。
「……っは、…は…、」
……彼は既にもう、成世の知る衣織ではないのだろう。
衣織が自分たちを売ったのは、姉を殺したのには、何か理由があるのかもしれないと。
その真意を確かめたいと、そのために運営人になるんだと。
また一緒にもとの生活に戻れたら、なんて、そんな無駄な希望にすがった自分が馬鹿だった。
優しくて、いつも笑っていて、完璧な。
成世が慕ってやまなかった兄は、もうどこにもいないのだ。
ゲームに巻き込まれてから、運営人になって今に至るまでの約二年間。
まるですべてが無駄になってしまったような気がして、心にぽっかりと大きな穴が空く。
……やっぱり兄は、あの日から変わってしまったのだろうか。
父が、兄を刺したあの日から。
あいつらが、父を裏切ったあの日から。
体から力が抜け、成世はしゃがみこんだまま、こつん、と壁にこめかみを押し付ける。
「……」
……誰かに会いたい。
それが死んだ姉か、はたまた別の誰かなのかは自分でもわからなかったが、とにかく今はただ、一刻も早くこの心の穴を埋めてくれる何かが欲しい。
まわらない頭でそんなことをぼんやりと考えながら、ふと廊下の先に目を向ける。
そんな時だった。
「……………………ぅ、と…?」
回廊の奥で、おそらく真堂であろう、白衣を着た黒髪の青年と話す雲十の姿が目に入った。
だがすぐさま話し終わったのか、彼は白衣をひるがえすと、すぐさま通路の奥へ消えようとしてしまう。
「………まって、」
……気づいたら、既に走り出していた。
自分は、彼にこんなことを求めてはいけないのに。
縋ってはいけないのに。
彼も、兄を壊した一人なのに。
憎まなければいけない相手なのに。
それでも、誰にも頼れないこの状況で、成世が求めてしまうのはやはり雲十だけで。
力の入らない体に精一杯の力を込め、足を動かし、無意識に彼の背に手を伸ばしてしまう。
そして。
「雲十、っ―……」
がば、と。
その小さな彼の体に、成世は思いきり抱き着いた。
「……成世…?」
「……」
どん、と体がぶつかり、その衝撃で雲十は二、三歩よろける。
一瞬驚きながらも、彼は怪訝な顔をしたまま、頭だけで成世の方をゆっくりと振り返った。
その表情は相変わらず成世を鬱陶しく思っている様子だったが、しかし。
いつものように馴れ馴れしく話しかけてくることなく、黙って雲十の肩に顔を埋めたまま動かない成世に、何かを察したのだろう。
成世の体に手をかけながらも、雲十は静かに口を開いた。
「何、急に」
「……雲十、今すぐ抱いて」
「……は…?」
「俺のこと、今すぐ抱いて…」
今にも泣き出しそうな声で、成世はさらに彼の肩に額を力強く押し付ける。
それと同時に、雲十を絞め殺してしまうのではないかというほど、ぐ、と彼の細い腹に巻き付く腕に強く力が入った。
「ちょ、成世……」
が、成世の懇願にも雲十は戸惑って眉を寄せるだけで、応じてくれる気配は一切ない。
そんな雲十を前に、成世は胸にくすぶる苛立ちと虚無感に流されるまま、彼の首筋にそっと唇を近づけると。
「……ぃ…っ、」
「……」
ぢゅ、ぢぅ、と。
成世の口元から湿ったような、それでいて掠れたような粘着質な音が鳴り響く。
同時に雲十の白い首には、成世の支配欲を示す、軽い内出血を起こした真っ赤な痕が二箇所付けられた。
「……っ?」
珍しく体を震わせ、雲十は背を丸めて逃げようとするも、成世は彼の腹に置いた手を今度は雲十の喉元へ伸ばして掴み、抵抗できない雲十の首を好き勝手乱暴に犯していく。
「……ぅ、ぐ、」
「……ねぇ雲十、抱いて。今すぐ抱いてよ、ねえ」
「……っ、なる、…せ、やめ、」
雲十の口から苦しげな呻き声が漏れるも、成世の横暴は止まらない。
ただただ嘆願するように、何度も何度も、雲十の傷一つない、きめ細やかな真っ白な肌に痕をつけていく。
雲十の口からは絶え間なく痛々しい声が発せられ、彼は手の甲で必死に自身の口元をぐっと押さえつける。
「…ぅ……ん、ぐ」
……今すぐ、雲十に抱いて欲しい。
抱いて、触って、いつものように犯して。
何も考えられなくしてほしい。
兄に触られた部分を、上書きしてほしい。
全部なかったことにしてほしい。
もう何も考えたくなかった。
兄のことも、雲竜のことも。
……そして何より、雲十のことも。
体が快楽で犯されている間は、きっと何も考えずに済むはずだから。
だから、次に雲十のベッドの上で目を覚ました時。
全部忘れられているように、酷く、痛く。
雲十に、犯して欲しい。
だが、次の瞬間。
「っ……なる、せッ」
「……!?」
突然、雲十が顔をこちらに向け、ぐいとシャツの襟を勢いよく掴まれたかと思うと。
ちゅ、と成世の口が、雲十の小さな唇で塞がれた。
「ん……っ!?ん、んっ……んん…ッ」
「……っ、……ん、」
「…んん…ッ、…ん、ん…」
にゅる、ちゅ、ぬぷ、と、雲十の舌が成世の口の中を犯していく。
上顎をなぞられ、唾液で舌を絡めとられ、口の中の酸素を全部奪われて。
びくびくと上半身が酷く痙攣する。
そして。
「……………………ふ、………ぁ……っ?」
がくっと腰から力が抜け、数秒もしないうちに、成世は雲十よりも先に膝から大きく崩れ落ちてしまった。
どさりと大きな音が廊下に響き渡り、口の端からは、どちらのかもわからない透明な唾液がとろ……と垂れ出る。
「……?………⁇」
何が起きたのかわからず、成世は酸欠で朦朧とする意識のまま、ゆっくりと顔を上げる。
ぼんやりとぼやける、その視界の先。
そこには肩を上下させ、珍しく顔を真っ赤にさせた、余裕のない表情でこちらを見下ろす雲十の姿があった。
はーっ……はー…っと何度も苦しげに息を飲みこみながら、雲十は静かに口を開く。
「……ちょっとは落ち着いた?」
「……」
「……成世?」
雲十は少し面倒くさそうに、それでもばさりと白衣をなびかせてしゃがみ込み、床に座り込む成世と目線を合わせて問いかける。
それでも成世に反応がないことが気がかかったのか、雲十はさら……と彼の耳元の髪を掻き分けると、成世の頬に手を添えた。
「成世、聞こえてる?」
「……」
「成世、」
「……ん…らいじょうぶ、」
ようやく意識がはっきりしてきたのか、成世は呂律の回らない口でそう返事をし、こくんと力なく頷くと、左頬に当てられた雲十の手に、すり、と自身の頬を押し付けた。
こつり、と雲十の人差し指に成世の耳たぶにつけられた銀色のピアスが軽く触れる。
そんな成世を見て少し安堵したのか、雲十はふぅ、と小さく息を吐くと、成世の顔から手を離し、ゆっくりと立ち上がろうとしたが。
そんな彼の白衣の裾を、成世がくい、と掴んで引き止める。
戸惑う雲十をよそに、成世はそのままもう一度雲十に体を這わせると、今度は正面から彼の体を抱き締めた。
「……何、」
「……ねえ。夜、雲十の部屋行っていい?」
「今日?」
「うん」
「……べつにいいけど。たぶん日付変わるまで戻れないよ。真堂さんから仕事頼まれてるし」
「それでもいい……俺、ちゃんと待てる、から…」
「……」
「おねがい、雲十……今日は、一緒にいて……」
「……そう。なら好きにすれば」
雲十の言葉に答えるように、成世は彼の肩に顔を埋めると、ぎゅぅ……と再び雲十の体を強く抱き寄せる。
「……」
……そっけない言動をとってはいるが、おそらく雲十は今夜、成世が望んだ通り、自分を抱いてくれるだろう。
蓮水雲十とはそういう人間だ。
いくら突き放すような態度をとっても、不満を口にしても。
最後には結局、成世に流されてくれる。
成世を尊重してくれる。
それはこの二年間、成世が雲十と付き合う上で得てきた知見だった。
蓮水雲十という人物は、気難しそうに見えて、根は案外単純なのだ。
だが。
……だからこそ、助かる。
「……雲十、すき」
彼の肩に頭を傾けたまま、成世はぽそり、と雲十の耳元で好意を囁いた。
成世の包む体が、ぴく、と小さく反応する。
「雲十、すき。すきだよ、だいすき」
畳み掛けるように、成世は雲十の耳の傍で言葉を発し続ける。
何度も何度も。
言い聞かせるように。
彼が少しでも、自分に対する感情を錯覚してくれるように。
「いつもきつい態度とってるくせに、なんかあるとちゃんと心配してくれるとこがすき。文句言いながらも、なんだかんだいって俺のわがまま聞いてくれるとこがすき。俺に反応してくれる雲十がすき。俺を求めてくれる雲十がすき。全部すき、だいすき……」
「……、」
成世に抱きしめられ、身動きのとれない雲十の耳に無理やり甘い言葉が流し込まれる。
むせ返るほどに甘ったるいその蜜は、彼の耳を伝い、やがて脳まで到達し。
どろどろと、まるで麻薬のように雲十の理性を犯し、ふやかしていく。
「っ……」
と同時に、徐々に雲十の体は熱を帯び始め、悶えるように成世の腕の中でもぞもぞと動き始める。
普段滅多に赤くならない雲十の耳が火照り、ぷるぷると体が震え。
きゅ、とほんの、ほんの僅かに、成世を抱き返してくれたのがわかった。
「……」
そんな甘い言葉を囁く一方、成世は思わずぞくりと背筋が凍るような、おぞましいほど冷めきった目を、雲十の肩から覗かせる。
……衣織に会って、改めて決心した。
成世は、雲十を許さない。
兄をあそこまで変えてしまった、蓮水の人間である雲十を。
例え、どんな手を使ってでも。
絶対に。
「……雲十、」
……あともう少し。
あともう少しで、雲十は堕ちる。
だから、何度も、何度も、何度も。
嫌悪も、恨みも、憎悪も、すべて押し殺して。
薄暗い瞳のまま、成世は雲十に偽りの好意を囁き続ける。
「―だいすきだよ、雲十」
不破成世の復讐は、まだ始まったばかりなのだ。
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