第9話.特殊試行実験体の少女

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 それから数十分後。  真堂は後処理を連れの研究員たちに任せ、二階にある自身の執務室に向かおうと、少女を連れて施設の薄暗い廊下を歩いていた。  本来ならばすぐにでも管理室に行き、残った仕事をこなさなければならなかったのだが、今は致し方ない。  真堂の背後では少女が一定の距離をとり、ぎこちない足取りでついてきていたが、おそらくまだ落ち着いていないのだろう。  とめどなく目からあふれてくる涙を何度も手でぬぐいながら、ぐすっ……ぐす、と嗚咽を漏らしていた。   「……そういえば、まだ名前を聞いていなかったな」 「……!……ぇ、あ…っ」 「今じゃなくていい。落ち着いたら教えてくれ」  真堂は振り向かず、前を向いたまま彼女にそう静かに告げる。  自分の歩幅が少女にとってはやや大きすぎることを感じ取った真堂は、ほんの少しだけ歩く速度を落としてやった。  少女はしばらく戸惑っていたが、やがて手の甲でごしごしと目元を強くこすり、無理やり涙を止めると、「………ま、しろ……です…」と小さくつぶやく。  しかし少女が口にしたのはそれだけで、その後に続くはずの言葉はいくら待っても彼女の口からは発せられなかった。  少女の返答にかすかな違和感を覚えた真堂は、わずかに眉を潜ませ、彼女に目を向ける。 「……真白?苗字はないのか?」 「え、あ……は、はい…。私たちは、両親の顔を知らないので……」 「……」 「……この真白という名前も、兄がつけてくれたものなんです……私の『髪の毛が、真っ白で綺麗だから』って理由で…」 「…………」  少女の言葉に、真堂はあぁそういえばと、あることを思い出す。  今思えば確かに、彼女の兄にも苗字はなかった。  おそらく彼らは物心つく前に組織に拾われてきた孤児か。  もしくは真堂のように両親が組織の関係者である、なのだろう。  組織の人間には様々な出生を持つ者がいるが、彼女たちの場合はなんとなく後者の可能性が高いような気がした。  真白という名はあまりに安直だと感じたが、しかしそれはまだ幼かった彼女の兄が、子供ながらに精一杯振り絞って考えた結果つけた、最愛の妹の名前だったのだろう。  真白という名前は、確かに彼女の美しさをより一層際立たせていた。  だがその真白と名乗った少女は、今の会話で兄のことを思い出してしまったのか、再び目じりからぼろぼろと大きな涙の粒を流し始める。  顔を手で覆いながら、彼女は続けた。 「……おにいちゃん、昨日まではいつも通りだったんです。今日も、仕事が終わったら私と一緒にいてくれるって約束してくれてて………なのにさっき、突然倒れて、」 「……」 「…きっと……きっと、本当はすごく無理してたはずなんです……私に心配かけないようにって…ほんとはすごくつらかったはずなのに、私のために、平気なふりして笑ってくれてて………私……わたし、何も気づけなくて…っ」 「………」 「…皆さんが言っていた特殊試行実験体の寿も、何のことか全然わからなくって………あんなに一緒にいたのに、私……兄のこと、なんにも知らなくてっ……‼」  ひくりとしゃっくりを上げ、声を押し殺しながらも真白は再び泣き始める。  彼女の瞳からは、今度こそ決壊したように大量の涙があふれだして止まらなかった。  だが、それも当然のことだろう。  彼女はまだ十歳前後の幼い少女で、兄が突然倒れたかと思えば、見知らぬ大勢の大人に唯一の家族である兄を殺されかけたのだ。  むしろ、よくここまで正気を保っていられた方だと思う。 「……」  ……彼女の話から察するに、きっと真白の兄は、彼女に自身の寿命の話は一切していなかったのだろう。  寿命が迫った特殊試行実験体は普通、寿命が尽きる一週間ほど前からまともに言語が話せなくなるほどの異常な精神状態に陥るはずだが、それでも彼が妹の真白にその兆候すら見せなかったのは、彼女に対する愛情ゆえか。 「ぅ……っ、ぁあ…」  気づくと真堂たちは、目的の執務室の前までたどり着いていた。  真堂はとりあえず泣きじゃくる真白を部屋に入れ、中央に置かれた応接用の赤いソファーに座らせると、自身は左右に敷き詰められた本棚の中から一冊の資料を取り出し、窓際の机の前に腰を下ろす。  棚に押し込められた書物の中でもひときわ分厚いその書物は、組織に属するすべての人間の情報が記載されている名簿帳だった。  ぱらぱらと紙束をめくり、何枚かページを翻したところで、真堂はぴたりと手を止める。  その見開きには、出生日すら載っていない、数少ない真白の情報と彼女の顔写真だけが印刷された真白の名簿があった。  そこに書かれた経歴を見るに、どうやら彼女は組織の上層部と交渉した兄の計らいにより、ことになっており、数年に渡って、真白は施設内の簡易な雑務のみを任されていた。  今となっては確かめようもないが、もしかしたら彼女の兄はここ数年で組織を脱するか、もしくは妹の真白だけでもここから逃がす算段を立てていたのかもしれない。  ……そして。  真堂は加えて、彼女の異様なほど少ない基本情報の一つである第二性別の欄に、最近新たに加筆された痕跡があることを発見した。 「……」  ……特殊試行実験体は消耗が激しく、最も人口の多いβ性を持つ人間にしか任命されない。  そして、幸か不幸か、真白は兄と同じ。  ちょうど数日前、組織の遺伝子検査でβ性だという結果が出たばかりだった。 「真白」  ぱたんと資料を閉じ、真堂は部屋の中央でまだ微かに肩を震わせている彼女に声をかける。  おそるおそる顔を上げ、真っ赤に腫らした目でこちらを見る、まだあどけない表情をした真白と目が合った。  はい、と酷くかすれた声で返事をした彼女を前に、真堂は静かに問いかける。 「最後にもう一度聞いておく。……君は、本当に特殊試行実験体になるつもりなんだな?」 「……!」 「既に知った通り、特殊試行実験体には君の兄と同じように、必ず大きな代償が発生する。それは君がこの役目を担う以上、絶対に避けては通れない上、二度ともとには戻らない。ここでこの役割を引き受けた場合、君がたどり着く結末は一つだ。」 「……」 「……それでも本当にかまわないのか」  じっと真堂の紅い目が、まっすぐに真白の顔を見据える。 「……」  ……もしかしたら真堂はこの時、彼女がここで首を振ってくれることを、無意識のうちに期待していたのかもしれない。  自分が今、どれほどこの小さな少女に酷なことを尋ねているのか、心の奥底で自覚していたのかもしれない。  やっぱり嫌だと。  そんなのは嫌だと。  わざわざこんな業など背負うことなく、ただただ無条件に兄を助けてほしいと。    ……そう、年相応の普通の子供のようにわがままを言って、精一杯駄々をこねて欲しかった。  だが、この真白という少女はやはり、残酷なほどに聡明で。  あまりにもひたむきで、純粋で。  真堂が望んだ唯一の願いを、跡形もなく打ち砕いてしまった。 「─かまいません」  真白の一点の曇りもない、思わず目を背けてしまいそうなほどに無垢な目が、真堂の瞳を強く貫く。  彼女のその両目にはもはや迷いは一切なく、そこにはただ兄を助けたいという絶対の意志と揺るぎない覚悟だけがあった。   「……」    ……だが、それだけではやはり胸の内に渦巻いた恐怖や悲しみの感情は消化することができないのだろう。  よく見ると彼女の指先は震え、目尻には涙が溜まっていた。  真堂はふぅと小さく息をつくと、ギッと音を立てて椅子から立ち上がり、資料を棚に戻して真白の傍に歩み寄る。  真白はこちらへ無言で近づいてくる真堂に、一瞬びくっと肩を震わせ、大きく身を縮こませたが。  真堂は彼女の二、三歩前で足を止めると、一度白衣のポケットに手を入れ、真白の前にすっと黒い薄手のハンカチを差し出した。 「……え、?」 「だったら今のうちに泣けるだけ泣いておけ。今後君は特殊試行実験体として、すべての感情を制御しなくてはいけなくなる。……そうしたらもう、どんなに悲しくても泣くことは許されない」 「……」 「だから、今は好きなだけ泣けばいい。君がいつか、この決断をしたことの後悔に苛まれることがないように」  真堂の言葉に、真白は小さくその腫れぼったくなった目を見開かせる。  真堂の声音は、相変わらず堅く冷たいものだったが、しかし。  真白はそっと、真堂の手からハンカチを受け取ると。 「……ぅ、あ…、ぁあぁああ………っ、!」  突如、ぶわりと。  泣いてもいい、と。  その言葉に今まで溜め込んできたものが一気にすべて吐き出されるように、真白はぼたぼたと大量の涙を目から溢れ返させてその場にうずくまると、初めて声を出して泣いた。  押しとどめた感情を手放し、顔を涙でぐしょぐしょにして、ただただ寂しさと悲しさだけを訴えるその彼女の姿は、ようやく年相応の子供のように見えた。 「……」  真堂はそんなわんわんと泣きじゃくる彼女を慰めることもなく、かといって放置するわけもなく。  ただただ彼女が泣き止むまで何も言わず、黙って傍で見守り続けた。      
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