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ぽかぽか陽気に誘われ縁側で昼寝をしていたが、どうにも暑くなってきた。むくりと起き上がり腰を高く上げ伸びをひとつして、縁側から室内へと入る。
丁度体が通る隙間分開けてあるのは家人の配慮か。そういった気遣いは必要ないと思いながらも、タマは陽射しの入り込まない和室の奥へと足を進めた。
縁側と違い、陽の入らないその部屋の中は障子越しの陽光で薄明るくはあるが空気はひやりとしていた。
「あら、ねこさんじゃない」
「こんにちは」
「今日は暖か過ぎる位の陽気ね」
「そう」
「この部屋では分からないかもしれないけど」
「そうね」
床の間から聞こえてくる彼女の返事はそっけない。いつもであれば、あれこれと外の様子を聞いてくるというのに。
「ここのところずっと機嫌が悪そうだけど、今日も同じみたいね」
理由は察していたが、敢えて知らないフリをすれば声の主は落胆とも言えるため息をはいた。
実際、部屋の中にため息は聞こえず、タマもにゃあと鳴いただけだが、二人の間でそれは確かに聞こえ、感じるものだった。
「このじきは毎日がゆううつよ」
それは毎年の事。だから理由など聞かずとも家人以外の皆はそれを知っているので、機嫌の悪い彼女には近付いてこないのだ。もっとも、近付けるものは限られているのだが。
「いいじゃない、別に」
理由の事には触れず、彼女を見上げる。
畳から一段高い床の間に右足を掛け、伸びるような姿勢で首を上げ彼女の全体像を見る。
そこには美しい桜の木が描かれた掛軸があった。
流れるような枝々に咲く薄紅の花弁は満開の頃を過ぎ、掛軸の中でハラハラと舞い散る様を描いている。そして、その桜の木の根本には白い一匹の猫の姿があった。
「家の中が静かでいいわ」
床の間に上がると、ひんやりとした板の冷たさが四肢から伝わり思わず身震いする。タマは掛軸の中の猫のように、足を畳み桜を見上げた。
「そうかもしれないけど……あんなに毎日美しいとわたしをめでてくれただんなさまもおくさまもこどもたちもみな外にでてしまうのよ……今日なんて、だんなさまのいもうとぎみまで来ているようよ」
「えぇ、おかげで外が煩いわ、賑やかなものよ、宴会だもの」
「はぁ……」
掛軸は憂鬱だわと嘆いた。
桜の咲くいま時期は毎年の様に桜の掛軸は愚痴をこぼす。
庭に咲く本物の桜の木を見るために家人達が外へ出てしまうからだ。いつもであれば、自分を美しいと褒め眺めるというのにこの時期はそれがない。
だから掛軸は桜の絵が描かれているというのに、桜が嫌いなのだ。悋気、嫉妬、言い方は違えど焼き餅だ。
毎年の事で慣れてしまえばどうという事はないが、毎日恨み言を言わねば気が済まないのだろう、この部屋の物達はうんざりとして口を閉ざしている。
床の間に飾られていた壷などは、それが聞きたくないが為に少し前に自ら床に転がり、今は修理の為家を離れている。
それも大体毎年あるので、家人は不思議に思いながらも壷を金継ぎ職人の所に預けるのだ。
「あなたはいいわね、足があるんだもの、わたしだってうごけたらわたしを見てってだんなさまたちに言ってまわるのに」
「100年大事にされたら貴女も動けるようになるわよ」
「つくもがみっていうあれ?でもねこさんはちがうわよね?」
「そうね、私は猫又、20余年生きて山に籠もって修行をして猫又になったの、貴女達とは少し違う、でも付喪神にきっとなれるわ、あと数十年もすれば」
「……そうかしら……」
掛軸の声は不安そうだ。あと数十年、100年まではまだ70年以上ある。
だからこの場所にいられるのか、たとえ壁から外されたとしても大事に仕舞っておいてくれるのか、もしかしたら売られるかもしれない、捨てられるかもしれない、そんな思いがその声からは伝わってくる。
付喪神、物が100年を経ると魂が宿るとされる。どんな物でも100年経てば良いという訳ではない。
その身の大半を破損、損失してしまえば魂は消えてしまう。それを100年保たせなければならないのだ、並の事ではない。
「おおだんなさまが生きていたころは、わたしの方がきれいだと言ってくださったのに」
「……」
今の当主の父親の事だ。
先代は庭の桜を大層愛し、絵師を雇い掛軸を作らせた。一年中、桜を愛でたい、そんな想いがこの掛軸には込められている。
だから彼女は見るものを虜にするような美貌の持ち主なのだ。
「詮無いことを……」
突き放すような事を言いながらも、その声音は同情と少しの懐かしさが込められていた。
先代は桜も愛したが、そこに描かれている猫にも愛情の限りを尽くしたのだ。
桜の根本に描かれた白猫、それはタマの以前の姿だった。
「わたしがうまれたときはもうほとんど布団からおきあがらなかったわ……それでも毎日美しいと言ってくれたの……」
病床の慰みとでも言うか、この部屋で療養している時はいつだって掛軸を見ていた。そして、その傍らには。
「ねこさんもいっしょに聞いていたでしょう?」
「……えぇ」
「でも今はせなかにくろいもようがあるわね」
「そうよ、だって大旦那様が亡くなって、私が修行をしたのは10年、その後同じ姿で戻ってきたら化け猫だって騒がれるわ」
この家に来たのは偶然。
母猫と兄弟達とはぐれ一匹で彷徨っていた。お腹が空いて、寂しくて、かなしくて泣いた。声が枯れるまで鳴いてうずくまっていた時に、先代が拾ってくれたのだ。
仕事先から家に戻る途中の畦道での出会い。あの時拾って貰えなかったら自分は猫又になるまでもなく、あの場で息絶えていただろう。
あれから20年以上、大事に大事にしてくれた。先代の奥様もまだ子供であった今の当主も。
先代が亡くなるとすぐにタマも消えた。猫又になり、この家に恩返しがしたくて修行をして戻ってきた。
猫又になれたおかげで変化の術が使えるようになった。人間に化ける事も出来るが、猫のまま、少しだけ年若く、背中に模様を付けこの家にふらりと戻ってきたのだ。
先代が亡くなってから猫は飼っていなかったようで、旦那様も奥様もタマの生まれ変わりだとこの家に迎えいれてくれた。
そしてまた同じ名前を与えてくれた。
「桜が散れば、また貴女の所に戻ってくるわ」
タマが戻ってきた時、家人は気付かなかったが大半の家具達は気付いてくれた。新入りも増えていたが、見知った顔に安堵した。この家は物を大事にしてくれる。だからまた戻ってきたのだ。
「……そうかしら」
毎年桜が散ると、名残惜しさも手伝うのだろう皆が掛軸の前にやってくる。やはりこの掛軸は美しい、散らないその姿を季節が巡っても愛でるのだ。
そしてまた春が来れば掛軸は愚痴をこぼすのだろう。
でもその愚痴をまた聞きたい。
だって、この時期だけは貴女を、先代の愛した私を独り占め出来るのだから。
「そうよ、だって貴女は何よりも美しいから」
綻んだ桜が笑うように、掛軸の周りが明るくなる。美しい彼女を美しいまま守りたい。
それが拾ってくれた先代への恩返しだから。
完
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