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ふたりの時間
卒業式の2日前、仁と心春は、美術館の展示ブースにいた。
そこには、仁の高校生活の集大成となる一枚の油絵が展示されていた。
「特選って……仁、すごいじゃん」と心春が仁の絵画を見て言った。
「いや~、間に合ってよかったよ。でもこの作品のお陰で、美術大学の推薦が取れたからマジ感謝だよ。そういえば、心春も決まったん
だよな。語学留学……」
「うん。春からは海外だ」と明るい声の心春。
「おめでとう。よかったな」と仁が嬉しそうに言った。
展示された絵画を見ながら心春が仁に言った。
「私、わかっっちゃったかもしれない」
「何が?」と仁が聞き返す。
「仁の好きな人、それって楓なんでしょ?」
「なんだよ。いきなり……。まあ、当たりかな。叶わない恋だけどな。ただ、俺は楓を見ているだけ、昔も今も……」と仁が言った。
「でも、それは仁が選んだ恋なんだよね。仁の恋の形なんだよね?」と心春が言った。
「おう! そうだ、それが俺が選んだ恋の形だ」と仁は笑いながら心春に言った。
その日の夕方、楓が音楽教室を訪ねて来た。
「先生、すみません、夕飯時に」と楓が言った。
「大丈夫よ。それより、私はこれから町内会の話し合いがあるの。お構い出来ずごめんなさいね」と言うと青井先生は玄関を出て行った。
楓は青井先生を見送ると、二階の結月の部屋のドアをノックした。
「どうぞ」と結月の声がした。
楓はドアを開けると室内に入ると、結月がピアノの前に立っていた。
「お別れに来たの?」と結月が言った。
「はい、ちゃんとお別れにきました」と言うと楓はピアノの前に座った。結月の目を見つめると、彼は手を伸ばし結月の手を引き寄せ、彼の隣に座らせた。
静かに瞼を閉じる。自分の鼓動と同じくらいの速さでゆっくりと瞼を開けると、楓は細長い指を鍵盤にのせゆっくりと動かし始める。
彼の奏でる音色を結月は目を閉じて聴き入る。
『ショパン 別れの曲』
楓が初めてピアノの音色に魅了された曲
そして、結月から教えてもらった想い出の詰まった曲、彼女との再会の時に彼が弾いていた曲、しなやかな長細い指で奏でられる音色は、甘く、そして切なく室内に響き渡る。
楓の想いが詰まった音色が結月のすべてを包み込んだ。
楓の指が鍵盤から離れる。
そう、お別れの時間……。
「楓君、私を音楽の世界に連れ戻してくれてありがとう」
「結月さん、俺にピアノの楽しさを教えてくれてありがとう」
「楓君、私を沢山愛してくれてありがとう」
「結月さん、俺を沢山の愛で包んでくれてありがとう」
「楓君の奏でた音色……一生忘れない」
「俺も、結月さんの楽しそうにピアノを弾く姿忘れません」
「楓君、大好き」
「俺も、結月さんのことが大好き」
「楓君、元気で……さようなら」
「結月さんも元気で、さようなら」
二人はピアノの前で抱き合うと互いの唇を
重ね合った。
結月の目から涙が頬に流れ落ちる。
楓はその涙を優しく拭うと微笑みながら言った。
「泣かないで。もう、これからは泣いちゃだめだよ」
そう言うと、結月を強く抱きしめた。
玄関先で楓を見送る結月、
「じゃあ」と言うと楓は、夕暮れの道を家に向かって歩いて行った。
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