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楓の音色
自宅に帰宅した楓は玄関のドアを開け、リビングに向かう。
リビングのドアを開けた先にはソファーに座り紅茶を飲んでいる母親の姿。
「母さん、ただいま」
「楓、おかえりなさい。今日は早かったのね。夕食は、 いつもの時間でいいのかしら?」
と母が言った。
「ああ、それでいいよ。俺、読みたい本があるから部屋にいる。適当に声かけて」
「わかったわ。それより、楓」
「何? 母さん」
「青井先生がね、あなたにまた来てほしいって言ってたわよ」
「青井先生が俺に?」
「そう、またピアノ弾きに来てほしいって」
「この前は、たまたま道端でばったり会って久しぶりだったから、ご自宅でお茶御馳走に
なって。久しぶりにピアノを弾いてみただけ」
「青井先生、喜んでたわよ。久しぶりにあなたの弾くピアノの音色聴けたって。全然色褪せてない音色だって。だから、以前みたいじゃなくて楽しく弾きに来てほしいって……。
お邪魔したら? 今度は、勉強の合間の気分転換を兼ねて」と母親が言った。
「わかったよ。じゃあ、週末にでも行って
みるよ。青井先生にそう言っといて」と言うと楓は自分の部屋に歩いて行った。
金曜日の放課後、楓はとある建物の前に立っていた。
洋館風の2階建ての建物、白い門の横には
『青井音楽教室』と書かれた木目長の看板が掲げてあった。
門を開けると両サイドにバラの花が咲いており、3メートルの程歩いたところに玄関がある。楓は玄関のドアには触れず、慣れた様子でぐるっと建物を半周する形で裏手に回ると、
裏口のドアを開けた。
「こんにちは…。楓です。」と少し大きめの声で言った。
「楓君? はいは~い」と女性の声が聞こえ、パタパタと足音が楓に向かって来るのがわかった。
「やっぱり、裏口から来るのね」
と女性が言った。
「つい、昔の癖で……」
楓に話かけている女性。
それは、楓が小学一年生から通っていた音楽教室の講師青井恵子だった。
長年、楓にピアノを教えていた彼女の家は
楓の家からも遠くなく、通学路沿いに建っていた。
楓は週に数回この教室に通っていたが、楓は何故か玄関からは入らず、裏口から出入りをしていたのだった。
「ふふふ、そうだったわね、改めて楓君、
いらっしゃい。早速にごめんなさいね」
と言った。
「いえ、青井先生、俺も気分転換に
いいかな? って」
「さあ、あがって」というと彼女は楓を家の中に招き入れた。
「おじゃまします」
彼女の後ろをついて歩く楓、案内される部屋に行くまでの間、楓はその家の中に漂うバラの花の匂いに懐かしさを覚えていた。
彼女が、稽古場のドアを開くとそこには、二台の黒いグランドピアノが向き合って並んでいた。その脇に設置されたソファーとテーブル。
楓はグランドビアノの前に立つと鍵盤を一つ押した。
調律された綺麗な音がする。
楓は来ていた制服のジャケットを脱ぎ、ワイシャツの袖を肘までまくるとピアノの前に座る。静かに白い鍵盤の上に細く長い指を置くと一瞬、瞼を閉じる……。
そして、ゆっくりと瞼を開くと指を動かし始めた。長い指から奏でられる音色は、美しく、優しく響き渡る。
楓が奏でる音色は繊細で、しっとりと……。
まるで、『切ない想い』を連想させるような音にも聴こえる……。
紅茶を入れたカップをそっとテーブルの上に置いた青井先生は楓の音色を聴きながら静かに
ソファーに腰を下ろすと指先でテンポを取り出した。
演奏が終わると、楓は静かに鍵盤から指を
離すと、青井先生の顔を見た。
「うん、素敵な音色。やっぱりあなたが奏でる音は聴く者を魅了するわ」と青井先生が言った。
「そんなこと……。でも、弾いてみてやっぱりピアノはいいなと思いました。」と楓が照れたように言った。
「紅茶冷めないうちにどうぞ」
「いただきます」と言うと楓はカップを手に
紅茶を飲んだ。
カチャリ……。
ドアを開く音がした。青井先生と楓がドアの方向を見ると、そこには、黒髪の女性が立っており、楓に向かって言った。
「ショパン 別れの曲、どうしてこの曲を弾いたの?」
「俺、この曲 昔から好きなんです。
だから……」
「そう、2階にいたら聴こえてきて、でも、お母さんが弾いてるのとは違ってたから、誰かな? って思って」と女性が言った。
「久しぶり……楓君でしょ?」
「はい。結月さんらお久ぶりです。」と楓はソファーから立ち上がり答えた。
「やっぱりそうだった。この音色は、
楓君だって」
それを聞いていた青井先生が、
「楓君、ピアノはやめてしまったけど、時々ここにピアノを弾きに来てもらうことにしたのよ。気分転換に……」
「ピアノやめたの?上手だったのに」と結月が言った。
「そう、高校生になった頃かな。だから、もう2年程は弾いてなかったんですけど、先日からまた弾くようになったというか気が向いた時だけですけど……」
「そう、楓君もやめちゃったんだ。でも、ピアノ弾ける時は弾いたほうがいいよ」と言うと
結月は部屋を出て行った。
「今日は、ピアノ弾きにきてくれてありがとう」と青井先生が言った。
「いいえ、青井先生、こちらこそ楽しかったです。ありがとうございました」
「楓君、もしよければまた弾きに来てくれないかしら? ピアノ……」
「いいんですか?」と楓が言った。
「もちろん、いつでもいいわよ。玄関から入ってきてもいいし、裏口から入ってきてもいい
から」と青井先生は笑って言った。
玄関を出た楓は2階の出窓を見つめる……。
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