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理学療法士の朝が来る
私たちはみんな孤独で、ひとりぼっちで死んでいくのだけれど、
せめてこの身体と脳が動く間は、楽しい終焉までの時間にしたい。
春が来て、風に吹かれたビニール袋が遠くに転がっていくように、冬の冷たい空気はどこか遠くに消えた。暖かい陽気があたりを満たし、通勤路で真新しいランドセルを目にすることが増えた。ランドセルの色は私が子どもだったころと比べ、驚く程カラーバリエーションが増えている。ビビットピンクやライラック色のランドセルにどんな意味があるのか分からなかったが、世の中は偏見と思い込みを捨て、選択と表現の自由を広げている気がした。
私は老人保健施設(家で生活できなくなった高齢者が暮らすところ)で働いて2年目の春を迎えた。仕事は高齢者にリハビリを行う理学療法士だ。身体が硬くなってきている患者には関節を動かし筋肉のストレッチをし、歩きにくくなってきた患者には歩く練習をし、座ることすらままならない患者には、座る練習をする仕事だ。施設には認知症の患者も多いので、パズルや簡単な計算問題をしたりもする。
ある日の夕方、私はパソコンの電源を切って小さく、しかし長いため息をついた。リハビリ業務の他に、意外と多いのが書類作りだ。しかし締め切りはまだ先なので今日はこのあたりで切りあげる。まだ残っている同僚にあいさつし、ロッカールームに行って薄い桃色の制服を着替えて自転車に乗った。まだ日の出ている時間はそれほど長くなかったので、外は薄暗くなっていた。まだ肌寒い春宵(しゅんしょう)の中を、私は自転車をこいでアパートへ帰った。
誰もいない小さな部屋に帰宅し、部屋着にきがえて冷蔵庫の野菜で炒めものを作って夕食にした。そしてそれを食べ終えると、テレビを適当に流しながらひと休みし、さっと風呂に入って早々にベッドに入った。そんな風にして平凡で憂鬱な日々は何も残さずに過ぎて行った。まるで灰色の平らな道路を、風が落ち葉を吹き上げながら通り過ぎていくように。
朝が来て目覚まし時計が鳴った。私はイモムシのようにふとんから這い出て、手動のコーヒーミルでごりごりとコーヒー豆を挽いた。お湯を沸かし、挽いたばかりの粉にゆっくりと円を描きながらお湯を注ぐ。コーヒーの香りが台所いっぱいに広がった。そのあと小さなフライパンで食パンとウインナーを焼き、キャベツを切って簡単なホットドッグを作って食べ、また仕事に向かった。
自転車をこいで10分ほどで働いている施設に到着する。茅ヶ崎の繁華街から離れ、のどかな畑に囲まれたところにある薄い黄色をした3階建ての建物だ。ここで約百人の高齢者が暮らしている。私は施設の裏の駐輪場に自転車をとめ、職員用の入り口から中に入ってタイムカードを押した。時刻は朝の8時過ぎだ。
更衣室でまた制服に着替え、気の抜けた挨拶をしながらリハビリ室へ入った。
「おはようございます……」
先に来ていた二人の女性があいさつを返してくれた。
「おはよう」
「おはようございます」
パートの作業療法士の華(か)原(はら)さんと柿田(かきた)さんだ。二人とも30代半ばの女性で、もう子供のいるお母さんでもある。華原さんは小柄で、やや童顔の大きな目をしていてセミロングの髪を後ろで束ねている。柿田さんは背が高く、色白で整った顔をしているショートヘアの女性だ。
正社員は私を含めて4人いるがまだ誰も来ていない。私は一応パソコンの前に座ってみたが、まだ眠気も覚めずただ初期画面を見つめていた。後ろでは才華さんと柿田さんが子供たちの話をしていた。
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