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狗尾 Ⅰ
近くで風が起こった。
濃厚な緑の香りが鼻孔をくすぐる。その香りで瞼を開けると、鳥が空に向かって飛んでいくところだった。
__大きな鳥だ。
ぼんやりと見ていると、鳥の影が次第に小さくなって、終には太陽に溶け込んだ。途端、遮るものがないが故、眩しい光が視界を焼いた。
反射的に目を覆い、次いで擦っていると欠伸が出てきた。
そよぐ風は柔らかくほどよい湿気を孕んでいて、清々しい涼しさ。注ぐ陽光で暖められた身体には丁度良い。
そんな空気を肺にいっぱい取り込んでから、首を左右に振って身震いし、目を慣らすように瞬きをする。
色が鮮明に捉えられるようになって改めて周囲を見渡すと、背後に森が迫っている草原に自分がいることに気づいた。
遮蔽物は背後の森と遠くに見える山ぐらい。山までの距離はだいぶあり、一面を芽吹いたばかりの青草がそよいでいる。その草原にはただのひとつの人影もない。
さて、と青年は考える。
__何を……どうしていた?
草原の只中にたった独りきりで、何をしている__していたのか。
ふわり、と柔らかな風が頬を撫でていく。その心地よさに風が吹いてくるほうへと視線を向ける。
__そもそも自分は……一人だった……?
見慣れた制服も着ている。得物もある。
だが、どういうわけか、しっくりこない。__何かが足りない。
漠然としているが、確かにある喪失感。
再びそよいで頬を撫でていく風が、喪失感を膨れさせる。無意識に己の体を抱くように、両の二の腕へ手を回して掴んだ。
__誰かが、いつもそばに……。
そう。いた気がする。
「……」
なんだろう、と青年は違和感を覚える。
ぽっかり何かが抜け落ちているような感覚。その抜け落ちた何かが、何なのかを探ろうとすると、ぼんやりとしてしまって、自分の思考が遠のいてしまう。
これではいけない、ともう一度、試みようと深呼吸して記憶を辿っていく。だが、少し深く考えると、ある一線を越えさせないように、無意識に頭がそのように働くのか、気がつくとぼんやりと草原の彼方を眺めてしまっている。
単なる寝起きだからなのだろうか__そう思いながら、まだ夢の中にいるような感覚に、膝においた手に視線を落とした。
__何をしている……こんなところで……。
再び思い出そうとした時だった。
清々しい空気とは打って変わって、ぬめりのある生暖かい湿った風__それも殺気を纏った風が背後からそよぎ、刹那の間に悪寒が体を走りぬけた。眠気など吹き飛んでしまうほど。
咄嗟に、自分でも驚くほどの軽やかな動きで、嫌悪感を抱かせる風の方へ身構える。
そこはつい今し方、振り返った森のほうだ。振り返って青年は息ができぬほどの驚きに、目を見開き体が強張った。
先ほどと違い、なにもいなかったはずのそこに、大きな獣がこちらを見据えて佇んでいたのだ。
だが、一目でそれがただの獣でないことがわかる。
鋭い蹴爪の備わった獅子の脚、鷲の翼__動物のようだが、顔はヒト。ヒトの顔は怒りの形相をした翁のそれだが、どことなく獅子にも似、剥き出しの牙は鋭い。顔の大きさだけで青年の身長ほどはある。
見せ付けるようにさらに牙が光ったように見えた。おそらく自分は、あの口に一口でおさまってしまうだろう。
__ここにいては殺される……!
異形の生物に恐れおののいて、逃亡のために体の重心を移動しようと決意した瞬間、ギョロ、っとした双眸に射抜かれた。
途端に、全身が動けなくなった。息もままならず、助けを呼ぶ声も上げられない。まるでその視線に絡めとられたかのような感覚。体がさらに冷たくなる。
獅子の前足が一歩、踏み出される。
距離をとりたいが、やはり足が動かない。
本能的に、視線だけは外せないと感じ取った。必死に歯を食いしばってその双眸を見つめていなければ、次の瞬間には自分の命は無いのだと、そう思えてならない。
獅子のもう片方の前足を踏み出そうと地面を離れた瞬間、茂みから何かが飛び出した。
__白い……影?
異形の生物は、突然目の前に飛び出したその白い影に驚き、鷲の翼をばたつかせ、前足で地面を蹴って距離をとった。
ジャラ、と金属がいくつか重なってほぼ同時にぶつかり合うような音がしたが、何の音かを青年が確認する前に、飛び出したそれが視界を遮る。
それは大きな白い犬。尾花のような優美な尾に、体躯に対して小さく極端に面長の顔を持ち、筋肉質というよりは細身の山羊のような華奢な身体。
犬は毛を逆立て、牙を剥き出しにし、体勢低くいつでも飛びかかれるように異形の生物を威嚇していた。
さながら青年を守ろうとしている様子ではあるが、その圧倒的な体格の差。犬としては大きいとはいえ、たかだか犬がどうやって異形の生物に勝てようか。
異形の生物の表情が、不適な笑みを浮かべた。くつくつ、と喉の奥で笑っている。
ごくり、と青年は喉を鳴らして、犬へ視線を向ける。
目の前の犬は、逃げろと言っても逃げないだろう気配がある。他人の指図など受け付けない気配にも取れるそれは、孤高な意思があるようにも受け取れた。逃げるくらいなら死をも厭わないその勇士__。
__自分だけ逃げるなんてできない。
どういうわけか、そう感じてしまい、咄嗟に青年は犬に覆いかぶさった。もし襲われたとき、いくらか盾にはなるだろう__自分にできる精一杯の行為だ。
「待たれよ、ヴァイナミョイネン」
ぐっ、とその犬に抱きつく腕に力をさらにこめたとき、よく通る男の声が、茂みのほうから聞こえた。
青年は犬を抱えたままそちらを見やる。
そこには、20前後の青年と、それより少し上だろう青年の2人組みが佇んでいた。
年嵩の青年は手に身の丈以上もある槍を持っている。
__助かった……?
しかしながら、彼はその得物を構えることなく、堂々と立っているだけ。
ヴァイナミョイネンとは何を指すのか、いまひとつ合点がいかない。それに茂みから現れた彼らがどういった立場なのかも分からない。
静かに様子を見守っていると、抱えていた犬が2人の男のほうへ駆け寄っていくので、少なくとも敵ではないことはわかった。
犬の動きに合わせ、異形の生物もそちらに首を向ける。
若い青年が、駆け寄った犬の背中を労うように撫でつけながら、異形に改めて視線を向ける。
「……小童が、わしをかように呼びおるとは」
しわがれた声だが、地面から響いてくるような重厚な声は、異形の生物のもの。苛立たしさというよりは、含みのある嘲りを孕んでいる。
「彼は同胞。それに貴方ほどの方が気づかないはずがない。にも関わらず、喰らおうとするのであれば、約を違える貴方様の格を疑い軽蔑するよりほかない」
「……名代風情が、威張りおる」
若い青年はやや表情を硬くした。その表情に気づき、年嵩の青年が一歩前に踏み出す。
スッ、と目を細め、槍を携える青年の様子に、異形の生物はくつり、と笑った。
「……なに、この男が寝ぼけておるでな、少々からかって起こしたまで」
手は出してないがな、とさも愉快そうに、くつくつ喉の奥で笑う異形の生物は、緩やかに身を翻し森のほうへ首を向ける。
「……ではな。__龍帝の狗」
ジャラ、とその際、またもあの金属音がした。
獅子の身体__本来、尾があるべきところから、金色に輝く硬貨が、面と面を向け合って整然と連なっている。その末端には、鋭い金色の鎌。
不思議なことに、硬貨同士を繋いでいる紐らしきものはない。ただの隙間があるだけで、動きに合わせてそこが伸縮するのだが、列を乱すことなく連なっている。それらは無機質な連なりのはずなのに、まるで獅子の尾の如くねっとりとうねるのだ。ならば、やはりこれは尾なのだろう。
さきほどの殺気__あれほど放っておきながら、嘘のように消し、あっさりと去っていく。その変容に拍子抜けしてしまった。呆然とその金属の尾を持つ異形の生物を見送るしかなかった。
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