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晦ます地底湖の道 Ⅲ
天井の穴から差し込む光は、日没を迎えたせいもありもはやない。頼れる光は、壁や床、石柱や天井で光るあの茸や苔のものだ。
奥で動いて見えた光は、そのどの光とも違い、ゆらゆらと可愛らしく揺らめく橙色。独立したひとつの光である。
「あれ? 犬?」
あどけない声に、リュングが目を細める。
「その声は、ワグナスか?」
問いかけに応じるように近づく足音。それは、揺らめく光のあたりからする。
一層緊張感を高めたシーザーに、大丈夫だ、とリュングが撫で付けて落ち着け、視界を遮るように前に出る。
それを見て、ロンフォールもシーザーを抱きかかえるようにして動きを封じ、成り行きを見守った。
やがて、その光が手にもつ小さな灯りだとわかるほどに近づくと、その持ち主が少年であるとわかった。見ていて清々しい柔らかい表情のその少年もまたケルビムである。
「よかった、お二人とも」
息を切らせながらも嬉しさを隠せない少年は、リュングの鳩尾あたりの身長。やや長めの髪は、両方のもみあげあたりの毛をそれぞれ結わえられており、その先端に金色の硬貨のような丸い飾りをつけている。
「あ、さっきの犬もい__あ……」
シーザーに笑顔を向けた少年と、シーザーを抱えたままのロンフォールの視線がかちりとあった。
害がない、と判断したのか、シーザーは注意深く様子を伺ったままではあるが、緊張を解いた。それを察し、驚かせないようにゆっくりとシーザーを解放する。
「彼は、我々と生活しているワグナス」
子響がロンフォールに歩み寄って、小さく耳打ちをする。
「……じゃあ__」
「お察しの通り。今は9つで、4年前に親御さんも弟御も病で……」
なれば彼は、片翼__兄だから右翼なのだ。
耳打ちする子響が言うには、他にも同年代の子がいるらしい。
ロンフォールはシーザーに思わず手を伸ばして、その頭を撫でた。何故か撫でていると落ち着け、無意識に手が伸びるようになっていた。
「何故、独りで里を出た」
やや低めに尋ねる声は、叱責もこめられているようにも聞こえる。
「お帰りが遅いから……日も沈んでしまったし……明かりを持っていかれたご様子もなかったから……」
先ほどの少年の明るさが、徐々に翳り始める。
「……そうか。ワグナスはよく気がつくな。それはいいが、誰かに言ってきたのか?」
少年は視線を落として小さく首を横に振る。
言葉はなくとも、様子だけで反省していることに察しがついたリュングは、ため息を1つこぼして、俯いてしまった少年の両肩に手を置いて、目の前に身を屈めた。
「お前に何かあったら、導師に面目が立たん。里のほかの者にも」
「……ごめんなさい」
「慌てていたのだろう。よくわかる。今回が初めてだものな。だから、今回で最後にしてくれ」
いいね、といって小さな頭に手を乗せて軽く撫でたときだった。
ワグナスが現れた方から、別の足音が近づいてきた。その足裁きの速いこと。
その足の速い者の姿を一行が認めたのとほぼ同時に、彼は声を上げた。
「あ、ワグナス! お前__リ、リュング殿?!」
勢いに任せて足を止めるも、濡れた地面であるため、いくらか滑る彼もまたケルビムだ。
「スレイシュ、ワグナスを追ってきたのか?」
スレイシュという青年はその質問を受け、駆け寄るようにリュングとワグナスのもとへ近づいた。
「すみません、自分の落ち度です。サミジーナさん達が他の子供をみています」
うむ、とリュングが頷いたのを見て、子響が笑いを堪えながら言い放つ。
「ワグナス、後でしっかりとお小言をもらいなさい」
ぎくり、と小さな体が目に見えて強張る。
その様子に堪えていた笑いをわずかにこぼしながら、子響が彼らに近づくので、ロンフォールもそれに続いた。
「子響殿もお戻りに」
近づく子響を認め、スレイシュは会釈をした。
「__首尾はいかがでしたか? 例の件は……」
「ああ、こちらに」
子響がロンフォールを示す。すると、ロンフォールの顔をじっと見つめ、スレイシュは動きを止めた。
ややあってから、彼の血相が急激に変わった。さらにはその雰囲気も。
___あ……。
あの雰囲気__気配は、先刻、あの森のところで全身の動きを封じ込めたそれ。
それに気づいて動けないロンフォールに対して、スレイシュが吠えるように地を蹴った。
視線を外さず睨み付け、まっすぐこちらへと進んでくる殺気の塊。ロンフォールを掴みかかろうと、彼は容赦なく飛び掛る。
やっとの思いで半歩下がるのと、シーザーが間に飛び込んでくるのとはほぼ同時。速さの上では、犬が勝っていたが、その牙が届く前に、子響が間に割って入った。
子響は左腕をわざとシーザーに咥えさせることで動きを封じ、右手でスレイシュの喉を鷲掴んでいた。カッ、という短い音を立て、子響が手放した槍が硬い岩盤へ落ちる。
その音を合図にでもするかのように、子響は右足でスレイシュの鳩尾あたりを蹴って遠く後方へ弾き飛ばす。スレイシュが水溜りに落ちた音に弾かれるように、我に返った様子でシーザーは咥えていた腕から離れた。
それらは刹那の間だった。
気が付いたら、目の前に迫っていたはずのスレイシュが消えたのだ。代わりに子響が目の前にいるではないか。驚きに呆然としていると、子響が左の二の腕を抑え、その場に片膝をついて崩れる。
「くっ……」
彼は、だらり、と力なく地面に垂れる左腕を右手でゆっくりと持ち上げ、立てた片方の膝の上に乗せ抱えるようにして、歯を食いしばっていた。
子響の傍で、彼の様子をじっと見つめる白い大犬__狗尾。
「し、子響!」
そこでやっと状況が飲み込めたロンフォールが、声を上げた。
リュングは、驚いて固まってしまったワグナスを背後に押しやり距離をとらせ、子響に駆け寄る。
「診せろ」
「いえ……手甲で防げましたので、大事には」
痛みをやり過ごすため、上体で抱えるようにしている腕を示す。
皮製の肘までの丈の手甲には、くっきりと牙が食い込んでいた痕が残っているが、彼の言うとおり貫通はしていないようだ。
「痺れているだけです」
脂汗を滲ませて、歯を食いしばりながら説明すると、固まったままのワグナスに微笑みかける。
次いで、シーザーを見やる。
「流石、狗尾だな」
その視線をロンフォールへ移し、子響が口を開こうとしたときだった。
水の中でもがく音を立て、咳き込みながらスレイシュが水から這い出てきた。彼は肩で息をしながら、ギロリ、とロンフォ-ルを睨みつける。
「よ、よせ! シーザー!」
シーザーが標的をスレイシュへと戻した気配が感じられ、ロンフォールは咄嗟に叫びつつ、メダリオンのついた首輪を持ち、体を抱えるようにして動きを封じ込めたときだった。
「スレイシュ」
鳩尾を押さえ咳き込みながら、ロンフォールから視線を外さず、一歩、また一歩と踏み締めて近づくスレイシュへ、リュングは立ち上がりながら手を翳して制する。
「何故、かような真似を」
憤りに顔を歪めて足を止めたスレイシュは、制するリュングをも睨みつける。
そして徐に、ロンフォールを指差した。
「導師に深手を負わせたのは、こいつだ!」
なに、とリュングと子響はロンフォールに振り返る。
驚きに見開かれた彼らの目が怖い。
ゾクッ、と体が震えて、視野が狭くなっていく。
「俺はその顔、忘れはしないぞ……」
__覚えていないんだ……。
「お、俺は……」
ワグナスは慌ててリュングに駆け寄り、その体に隠れながらこちらを見つめてくる。
怯えきったその瞳__あたかも血のような紅玉。
__そんな目でみないでくれ……。
「導師が止めさえしなければ、あの時、俺が殺していたのに__!」
鈍器で後頭部を殴られたような衝撃に、心臓がひとつ速く脈動した。
__俺は、何をしたんだ。
息ができないほど、胸が苦しい。
脈動する心臓の音が頭の中で響いている。
__怖い……思い出したくない……!
思い出したら、やはり自分は__彼らの敵にしかなりえないのではないか。
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