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序詞
水面を雫が叩く。
音は甲高く響き、その余韻が消える前にもう一度雫が音を立てる頃、胸元に熱い鉄の塊を抱いている感覚に襲われる。
思い出したように胸元の違和感へ手を伸ばすが、何かに阻まれた。
目の前の漆黒の闇を見つめていた視線をその阻む何かに落とせば、何者かの背中__身体がある。
また足元で水面を雫が叩いた。
体当たりする形で懐に入り込んでいるその身体は、さらに懐へ踏み入るように体重を乗せてくる。
熱い塊の中で、何かが動いたのが分かった。動くそれは、熱の中にありながら冷たさを覚えさせる。途端に足元に滴る音が粘りを含み多くなる。
「ぐぅ……」
本来ならばとっくにあげていたはずの呻き声が、そのときやっと口から漏れた。全身の血と言う血が沸騰し、心臓は緊張したように硬くなり、不規則に脈動する。
危機感を覚えた男は、軽く右手の指を動かした。
__彼方へ……っ!
二指を動かすと同時にそう念じれば、懐にあった身体が見えない力に弾き飛ばされ、勢いをそのままに目視できる範囲で一番遠くの柱へと届く。
叩きつけられた柱から剥がれ落ちるように、大理石の床に落下したその身体。微動だにしなくなったのを確認していると、ぐわん、と足元の硬い大理石が、まるで水あめのように柔らかく波打った。
床に崩れ落ちて体勢を整えようと手をつき、血の海が広がる冷たい固い大理石に触れて、気づかされた。床が波打ったのではなく、自分が眩暈を起こしたのだ、と。
何時もであれば造作も無いことをしただけ。にもかかわらず、これほどの消耗をしている。
内心舌打ちをしつつ、立ち上がろうと力を入れてみる。
だが、ひじが砕けて自重を上げることができない。再びうな垂れるように膝から血の海へ落ちる。どうやっても思うとおりにならない体に、内心焦った。
そこへ、背後から慌てた様子の足音が近づいてきた。
その足音は耳慣れたもの。半刻もしない前に別れた仲間だと教えてくれた。
「導師!」
血相を変えた声に応えようにも、喉元を競り上がってくる血潮が邪魔をする。
粘つくような重い手を叱咤して、胸元に刺さっている得物を忌々しい思いをこめて抜き取り、無造作に投げ捨てた。
刃から離れる血潮が軌跡を描き、柄から大理石の床に着地をした得物。
人気の少ないこの建物はそもそも反響しやすい作りになっており、それも手伝って、細く長く音が続く。その音を断末魔の咆哮とするかのように、得物は静かに半円分、刃を回転させて止まる。
「なんて無茶な」
彼の言葉にはもはや応じる余裕はなく、得物を抜き取った手に意識を集中し、熱の塊に添えて治癒を試みる。
息をすること自体が困難で、意識して細くゆっくりと呼吸しなければ吸った空気が肺まで届かない。加えて途切れがちな集中力では、なかなか治癒がままならない。
喘鳴を聞き、それを察した部下が舌打ちをした。
「くっそ__」
「よい……」
息をするたび、痛みに喘ぐ様に堪えていることを目の当たりにした仲間が、吐き捨てながら抜刀して、蹲ったまま動かない男に向かおうとする動きを見せたので、すかさず制した。
事を荒立てて得があればやぶさかではないが、これでは意味がない。
__否、順序が違うのだ……。
ちらり、と崩れ落ちて闇に埋もれた男を見る。
ここで殺してしまえば、確かに男からの報復を受けなくてすむにしても、それ以上の損失が後々になって襲うことは少し考えればわかるもの。故に、殺すべきときがあるとすれば、今ではない。今殺せば、自分たちの行動を自分たちで制限してしまうのと同義だ。
「ですが__!」
「……目的を違えるな」
そう、そもそも目的はこれではない。
なおも食い下がるような様子に、そう静かに諭すように告げると、彼ははっ、と息をつめてから、堪えるように口を一文字に引き結んだ。そして得物を鞘に戻しながら、自らの衣服が汚れることも厭わず、脇に膝をつく。
「……神子は、どうした」
「……恐れながら、我々は嵌められたようで……」
問われた男は罰が悪そうな表情をしてから、語りだした。
「神子は座所には居られず、おそらくは__」
彼はギロリ、と吹き飛ばされて動かなくなった男を睨みつけた。
「龍帝の従僕により、すでに移動させられてしまった可能性が……こうなってはシキョウ殿の安否も気になります」
彼が言っている言葉も、ただの音の連なりにしか聞こえないほど朦朧としている。それに加えて、その音も遠くに聞こえる。
傷からの熱は感じ取れるが、それ以外__特に末端の感覚がない。
「肩を貸せ__戻るぞ……」
体重のほとんどを、肩を貸してくれた彼に預ける形で、どうにか2本の足で立ち上がった。
そこから急ぎ神殿を出たところまでは記憶にあるが、ぷつり、と男は意識を閉ざした。
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