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痛み Ⅱ
的を見据えた途端、彼は武人になる__そう、キルシェの目には映る。
広い背中から発せられる、覇気。立派な体躯の持ち主の武官らしい、堂々とした出で立ち__その様は、勇壮を具現化したようなもの。その背中には、龍騎士たる証の鷲獅子の紋を負っているはず。
龍騎士に叙されると、鷲獅子の紋を負う__彫られるのだそうだ。キルシェはその目で見たことはないが、特別考慮されるような事情がない限り、男であれば必ずそれが課せられる。それは相当な痛みを伴うのだそう。彫り物というものは、生涯消えない。謂わば、生涯の忠誠の証となる。
鷲獅子の紋__施される彫り物は、鷲獅子だけでない。中央に据えられた龍帝と法を表す円を、一対の翼を広げた鷲獅子が守るよう、あるいは掲げるように左右から支え、それらの文様から下へ向かって伸びる五条の放射状の線は、戦神の威光と意思を表す。
__忠義を負う背を、敵に向けて逃げない……のだったかしら。
危機に対して己が身可愛さに背中を向けて逃げること、龍帝の御意に反することは、あってはならない。
__痛みで以って、立場を自覚させる。
自分はエーデルドラクセニアの根幹を担い、全てを負っている、という使命を失わないため。
男の龍騎士に対し、女の龍騎士は少ないながらも、叙されている。だが、彼女たちは子をなすこともある。そうなると、守られる立場だ。どうひっくり返っても、男が子を宿すことなどできない。故に彫り物はされない。
子は未来。未来を担う者たち。そうした子を宿せる女の龍騎士が、敵に捕らわれても龍騎士だと悟れられず逃れられるように、龍帝が勅命でそう決めた。
キルシェは、リュディガーの背をぼんやりと眺める。
大学において、これほど体躯が立派な男はいない。それでいて、がさつな印象を覚える動きを一切しないのだ。何もせず、佇んでいる姿だけでも目を引く。
きっと龍帝従騎士の制服が、これ以上ないぐらい似合うだろう。そして、その制服に恥じない武芸の腕前の持ち主に見える__だのに。
__本当に、何が上達の妨げになっているのか……。
細く息を吐き出し、鞘から矢を取り出したところで、リュディガーが手を止めて振り返った。
「あぁ、キルシェ。忘れないうちに確認しておきたいことが」
「何でしょう?」
「来週からはどうする?」
「来週?」
「昨夜、君を運んだ後、先生と私室でご相伴に預かった。その際伺ったが、君は外へ講書に行くのだろう? 大変ではないか、と思ったのだが」
講書とは、大学が外部から依頼されて学生を講師として派遣することだ。仕事として請け負うため、依頼主は大抵が富裕層。
キルシェが派遣されたのは、半年ほど前からだ。月に4、5回程度、帝都の隣街で幅を利かせるとある貴族が依頼主。今月はたまたま時間があわず、向こうから一ヶ月ほどお休みを、という申し入れが合ったのだ。
「……忘れていました。そう……もう、来週から……そう、そうですよね」
ぶつぶつ、と独り言を呟くキルシェを、リュディガーが怪訝にした。
「__大丈夫か?」
「え、ええ……」
かろうじて、笑みをつくる。ぎこちない笑みにはなっていないだろうか__リュディガーの目が一瞬僅かではあるが細められたように思う。
「その、何も準備をしていなかったものですから……」
隣街とはいえ、講義する時間もあるから一日かかってしまう。リュディガーの弓射指南をするいつもの時間に、間に合うかどうか。
「……無理はしてほしくない。その日は、休みにしてしまっていい。射掛けているぐらい、ひとりでもできる」
「ですが……」
「……また、寮長に小言をもらう自体になるかもしれない」
「え?」
彼の言葉の意味が理解できず、怪訝に首を傾げる。
「__昨日のように女性寮に運ぶことになっても構わないなら、いざしらず」
その言葉に、ひゅっ、と息が詰まり、一気に顔が火照った。思わず両手で頬を押さえれば、間違いなく熱い。
__あんな……だらしない……。
とんでもない話だ。寮長の小言は別にして、自分にとってはあるまじき失態。曲がりなりにも、そこそこの家柄の子女。それも嫁入り前の。それを自覚して、これまで過ごしてきたというのに。
健全な成人男性に抱きかかえられて運ばれたとあっては、社交界であればしばらく賑わすには十分すぎる格好の噂話。下手をしたら、傷物、と尾ひれが付きかねない。
まだ大学という特殊な環境だったから、よかっただけ__まだましという話。それでも、噂にはなるだろう。それだって、まず間違いなく、良心から行動しただけのリュディガーも巻き込まれるような形でだ。そこがとてつもなく忍びない。
__その分、しっかり指南をしないと……。
「……ちょっと、弓射については考えます。__が」
「が?」
「リュディガーを落第させるわけにもいかないので、早く帰って来られたときは、容赦なく弓射指南をいたします」
「承知した。心しておく」
小さく笑いあった後、リュディガーは改めて的へ向き直った。
__講書……また始まるの……。
キルシェは内心、ため息をこぼす。いくらか憂鬱になっているのを、認めざるを得ない。
射掛けるリュディガーの背を見ながら、こっそり、唇を噛み締めるのだった。
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