講書の日

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講書の日

「キルシェ」  名を呼ばれ、キルシェははっ、と我に返った。  呼んだのはリュディガーで、見れば、彼は弓と矢を手にやや離れたところに佇み、身をわずかに傾けるようにして様子を伺っていた。 「どうしました?」  尋ねれば、リュディガーは肩を竦め、手にしていた矢を鞘に戻す。 「__今日はこのあたりで終わろう」 「でも……まだはじめたばかり__」 「もう十六矢は射掛けているが?」  え、と声を上げて、リュディガーが顎をしゃくって示す彼方の的を見れば、その的の周囲__無論、的にも三矢は刺さっている__上下左右に矢が刺さっている。  どれほど時間が経ったのか、と空を見れば、東の空には欠けた月が、薄く鈍い空を背景に輝き始めている。  __そんなに時間が経ってるなんて……。  始めたとき__記憶にある空は、太陽は傾いてこそいたが、夕焼けにさえなっていなかったというのに。 「これほど気も漫ろということは、やはり疲れているのだろう」  言いながら、射掛けた矢を回収しに遠ざかっていく背中を、なんとも申し訳なく、罰が悪い心地になりながら見守るしかできない。  程なくして戻ってきたリュディガーは、矢筒を外しにかかる。 「__何があった?」 「え……」 「あまりにも気も漫ろだ。何度か話しかけたが、まるで反応がなかった」 「ごめんなさい。気が付かなくて……」 「いや、それはいいんだ。気にしてはいない」  弓と矢筒を取り直したリュディガーは、キルシェを促して道具を収める倉へと踏み入る。明かりもつけず、薄暗い倉の中で迷いなく弓と矢筒を収めた彼は、つい今しがた手を放した矢を見つめたまま動きを止めた。 「……講書が関わっているのか?」  キルシェが怪訝に思い、声をかけようとした刹那、その背中から発せられた言葉。心臓が大きく一度拍動し、思わずひゅっ、と小さく息を詰めた。 「この1ヶ月、観察していた。君の様子が可笑しい日は、講書がある日に重なる」  肩越しにリュディガーが見てくる。その目。薄暗い倉の中にあっても、映える蒼の相貌。別段鋭く細めているわけでもないのに、射抜かれるような怜悧さがあって、キルシェは咄嗟に俯く。どくどく、と拍動する音が早く大きい。  __何もない……と、言えばいいのに。  何ら問題はない、とただそれだけ。たったそれだけ告げれば、それで済むだろう。だのに、あの視線には上辺の言葉が通じないように思えた。  __リュディガーは察しがいいから……。  勘が鋭いとでも言えばいいのか。気が利くのはもちろんだが、ともすればそれは、心の奥底の触れられてはほしくない部分に触れる__否、抉るのだ、とこのとき悟った。 「ただ事ではないのだろう」  何もない、と言えばすむ。口を開けるが、そこで留めてしまう。それを言ってしまったら、彼の信用を裏切るような気がしてならない。  だが、晒したくない、というのも事実。できれば触れたくないし、触れられないで済むならそうしたい__だから、頭を可能な限り回転させて有効な弁解を探る。  はくはく、と口を動かす様を見て、リュディガーは身体を向けてきた。 「話せないか?」  柔らかい口調は、無理強いをするつもりはない、と言外に語っている。 「気づいてないだろうから言っておくが、あのとき、君は表情を強張らせたのだ」  リュディガーの言葉に、キルシェはおずおずと顔を上げた。そこには、真摯な顔がある。 「……あのとき?」 「先月の終わり。君が忙しくなるから、弓射の指導についてどうするか、という話をしたとき。だから気になっていた。なにがあるのだろう__と」  気づかぬうちに、表に出ていたらしい。  そう、とキルシェは再び俯く。 「師弟関係というものは、信頼関係があって成り立つと私は思っている。君は、ただ事ではないことを抱えている。その抱えた状態で、果たして指南役が務まるのか? 指南される側の身になってくれ」 「それは……ごもっともです」  彼の指摘に、ぐうの音も出ない。彼は落第するかどうかがかかっていて、担当教官から白羽の矢を建てられた自分に頼っているのだ。その自分がこの体たらくでは、示しがつかない。 「……心配しているんだ。君のそんな様子、ただ事ではないと察すればこそ」  それは、すごくありがたいことだ。  __だけど……それでも……。 「私では役に立たないのなら、せめて、先生に打ち明けてみてはどうだ?」  __それは、できない……。 「……わかった。なら、君が、私かあるいは先生に話す気になるまで、弓射の指南役は頼まない」  思いも寄らない言葉に、え、とキルシェは目を剥いて顔を上げる。彼は本気のようで、いつものように穏やかに笑っていない。  かちり、と合った目が、いくらか細められる。 「それじゃあ、落第__」 「君の知ったことではない」  食い気味に、しかも強めて彼が言うことはないから、うっ、と怖気づく。  ばくばく、と心臓が痛いほど打つ。両手を握り込んで、奥歯を食いしばった。  彼は引き下がる気はないし、なあなあにするつもりもないのだろう。この倉に自分をひとり置き去りにしてしまうつもりなどないようで、さっさと行けばいいものを、腕を組んでいくらでも付き合って待つという態度だ。  __それだって、心配しているが故だわ……。  ここで彼に告げるか、あるいはビルネンベルクに告げるか__その二択しかない。  講書はこれからも続く。このまま放置というわけには、彼の中ではいかないのだろう。キルシェが気づかぬうちに、態度に出てしまうほどなのだから。  大きく拍動する心臓を少しでも落ち着かせようと、握り込んだ両手で胸のあたりを押さえつける。そして、大きく数回深呼吸をしてから、ひきつる喉を叱咤して、口を開いた。 「……講書へ伺っているお屋敷のご当主、ケプレル子爵が少々……」  自分で発した言葉が、とてつもなく震えていることに、キルシェは驚いた。 「少々、なんだ?」  先を促す彼の声は、とても労るように柔らかい。それに励まされ、唾を飲み込んでから改めて言葉を続けようと口を開く__が、それ以上がどうしても声に乗せることができない。  声よりも、不快感がせり上がってくるのだ。 「キルシェ……?」  リュディガーが、身を屈め顔を覗き込んでくる。心配そうな顔に、どうにか笑みを返そうとするが、引きつった笑顔になってしまう。  ここまで言ったら、言ってしまうべき__そう自分を叱咤して、震える声でどうにか先を続ける。 「__腰にいつも手を回してくるのですが……」 「……何?」  リュディガーの眉間に深い皺が刻まれ、穏やかな色の青の瞳が苛烈なほど鋭くなる。 「今日はとりわけ近い上……その……手が、手が上がってきて__」 「何故、先生に申し出ない?」  言う先を封じるように、リュディガーが語気強く言葉を発する。  聞いたことがない低く唸るような声で、キルシェはびくり、と肩を弾ませる。 「……申し出る理由が浮かばなくて」 「何を馬鹿な! 理由ならあるだろう! 君がそれを体験しているという、これ以上ないぐらいの理由だ!」  あまりの怒声に、キルシェは身を強張らせた。
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