勝手知ったる

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勝手知ったる

 大学は帝都の端に位置し、そもそもが静かな区画だ。  大学から続く石畳の道は、街灯はあるもののその間隔はかなり離れていて、門に提げてあるカンテラに、篝火の火を移した明かりを頼りに進む。  幸いにして、今夜は十六夜の明るさがあり、白い石畳が幾分輝いて見えるし、月影の届くところはじんわりと滲むように輪郭が見て取れる。  歩いて五分程で森が切れ、川を渡る橋まできて、やっと店らしい店が見えてくる。門からこの橋までが、大学というある種の隔絶された世界と外の緩衝地帯である。  少し先に広場があり、そこを囲うようにして軒を連ねるのは、文具や本屋といった専門店である。それらは、学生が出歩かなくなる夕食時には閉まってしまうから、キルシェたちが歩く通りは街灯の明かりのみで仄暗い。  その広場には、学生を意識した品揃えの店に混じり、地上三階建ての借家の建物も並んでいる。  時折、鼻をかすめる香りは、夕食の香りだろう。窓から漏れ聞こえるのは、団欒を囲む笑い声や、子供の鳴き声、歌声など様々。それらを聞き流しながら広場を抜け、やや太い通りへと踏み入る。  そこもまだ住宅街であるが、より人の気配が濃く、賑やかで明るかった。このまま行けば、大学から一番近い繁華街に至るはずだ。  そうして至った繁華街の中心地である広場の景色と気配に、キルシェは口を引き結んだ。  __こうも雰囲気が変わるなんて……車窓から眺めるのとは、違うのね。  この時間帯に徒歩で出歩くことは、一度もなかった。  昼の顔と夜の顔、車窓から違いは見ていたが、満ちる空気に身を晒すとまるで別物。  街灯に照らされる石畳も、建物も、人々も、全てが蠱惑に見えてくる。窓から見える店__それもただの料理屋だ__を興味に駆られて覗いてみたいが、どうにも憚られる気がして視線のやり場に困り、泳がせてしまう。  ここでこの程度なのだから、帝都有数の歓楽街などは一体どれほどのものなのか__。 「__大丈夫だ」  歩みが止まりかけていたキルシェにリュディガーが笑い、手を背中に添えるようにして促した。促しながらも、彼は賑わいを避けるように広場の端を歩いて通り過ぎ、さらに通りに踏み入る。  繁華街の残り香のような賑わいを宿したその通り。大学から出て三十分は優に経っただろう頃に、リュディガーが足を止めた。  ここだ、と言って彼が示した店は、主要な通りではないにも関わらず三階建のやや間口の広い建物。窓から見える店内は、確かに飲食店のようだ。  リュディガーは、カンテラの明かりを吹き消して、扉を引いて開ける。軽やかな入店を告げる鐘が鳴ったと同時に、中の賑わいとほんわりとした温かさが溢れてきて、キルシェに入るよう促した。  入ってみると、想像よりも奥行きもあって広く、天井とそれを支える中央の広間に並ぶ六本の太い琥珀色の木製の柱が目を引く。  二階席がぐるり、と漆喰の壁に沿って囲うような吹き抜けの開放感__まるでホールのような構造だった。  それらを見渡しながら、外套を脱ごうとしたところで、ふと疑問を投げかける。 「あの、受付の方は?」 「そういう仕組はない」  笑って答えるリュディガーは、向かって左奥のカウンターの店主に視線と手振りでやりとりを短く行い、店主がどうぞ、と手を振ったのを受け、カウンターとは反対の店の奥へと向かう。キルシェもまた彼の後に続き、黒いタイルと、鈍く輝く真鍮の色の小さめのタイルとが、敷き詰められている床を歩く。  中央の等間隔に並ぶテーブル席の中を抜け、角の壁際の、柱と柱の間に身丈ほどの高さで隣席と間仕切りがされているテーブルに先に至った彼は、椅子の背もたれに手を置いてキルシェに示した。  キルシェが外套を脱いだところで、いつの間に背後に回り込んでいたのかリュディガーが見計らうように受け取って、壁のフックに掛け、自身も外套を脱いで掛ける。  そして、一脚椅子を引いてみせるので、キルシェは礼を言い、リュディガーが具合良く動かす椅子に着席した。 「寒くはないか?」 「大丈夫です」  暖炉は入り口から入って、建物の左右にあるが、そのあたりは残念ながら空いている席がなく、最も遠いこの席はうまい具合に暖気が巡ってきているようだった。おそらく、窓が直ぐ側ないというのもあるのだろう。 「冷えるようだったら、言ってくれ」  そう言いながら、四角いテーブルの角を挟んだ隣の席に腰を据えるリュディガー。 「ありがとうございます」  礼を述べながら、テーブルの上に置かれているはずのナプキンを取ろうと手を伸ばしたが、手にその感触がない。疑問に思って視線を落とせば、年季の入ったテーブルは艶めいた表情を見せるだけ。テーブルには二冊の品書きと、小さな花瓶に活けられた花が彩っていて、カトラリーも置かれていない。  まるでいつもと違う__外食の機会が少なかったキルシェには、外食するというそれだけで新鮮だというのに、ここではさらに勝手が違うからなおのこと新鮮で、何が起こるのだろうか、と心が弾むよう。  リュディガーはテーブルに置かれていた二冊の品書きのうち、一冊を手にとってちらり、と中身を確認してキルシェに渡す。 「気になるものがあればいいが」  受け取った品書きを眺めてみるが、見慣れない並びで一瞬困惑する。  __色々ある。  ビルネンベルクに伴われて行く料理屋の品書きは、前菜から始まる料理の流れが決まっていて、それが綴ってあるだけだ。前菜、スープ、魚介料理、口休め、肉料理、生野菜、甘味、食後のお茶というのが、大抵の流れ。  稀に、主菜をいくつかの中から選べたり、品数を減らしたりする自由がある程度。  手元にある品書きはそうした流れは記されておらず、前菜はもちろん、魚介料理、肉料理、甘味、飲み物まで、複数項に渡り記されている。 「これは……前菜から、都度頼んでいけばいいのですか?」 「いや、大抵は一度に頼む。一度まとめて頼んで、あとから追加は構わないが、都度一品ずつではないな」 「そう……」  これほど選択肢に自由があると、当惑せざるを得ない。新鮮で興味深く、楽しいのは違いないが。 「そんな難しい顔をさせるつもりはなかったが、適当に見繕おうか?」 「……お願いしても?」  もちろん、と頷いて、一通り眺めてから、リュディガーはカウンターに手を軽く上げる。すると、カウンター近くで作業をしていた店員が水の入ったボトルとグラスを盆に乗せてやってきて、テーブルにそれらを配する。  店員と品書きを交互に見ながら、キルシェには呪文のように聞こえる言葉の羅列をよどみなく発し始める。それを一々止めもせず__質問には答えていたが__頷いて応じていく店員はメモさえも取らない。 「キルシェ。飲み物は、とりあえず食後のお茶ぐらいでいいか?」 「__あ、え? あ、はい。それで大丈夫です」  突然話を振られ、びくり、としながらもどうにか答えれば、リュディガーが少しばかり笑って店員に伝える。  直後、店員は品書きを受け取って、最後に空のグラスに水を注ぎ、軽く会釈をして下がっていく__そこまで、そう時間はかかっていない。あっという間だった。  何をどう注文したのか、何品注文したのかキルシェには把握しきれていない。 「__こういう仕組みだ」 「はぁ……」  なんとも曖昧な返事のキルシェを見て、リュディガーは笑って水を一口飲む。それを見て、キルシェも倣うように水を口に運んだ。
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