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落第しかけの青年
タウゼント大陸の全てを領土とする、エーデルドラクセニア帝国。
首都州マルクトの首都__帝都ドラッヒェンブルクは、背後に山を負い、五重の扇状に広がる都。
しん、と寝静まる帝都が戴く星空が、東の地平の彼方から白く溶け始める。
かじかんだ手に温かい息を吐きかけながら揉んで温め、その移りゆく空を見つめている女がいた。
いかばかりかして、さて、と女は肩にかけていた弓を取りなおし、矢尻のない矢を取り出し番える。そして、満を持したところで矢を放とうとした刹那、上空を何かが通り過ぎた気配に一瞬気を削がれた。
どっ、と鈍い音を立てて的の真横の砂地に刺さる矢を見、ため息をついてから空を見上げる。そこには、飛び去る大きな鳥__否、龍。
腹は黒いが背は白い鱗のそれは、この国が世界に誇る龍を駆る騎士団の龍。鞍をつけているから龍騎士が乗っているはずだ。
帝都の見回りをしているのだろうが、なんとも魔の悪い。
__集中を削がれた私が至らないのだけど……。
それにしたって、今のはだいぶ低空だ。
やれやれ、と首を振って龍を見送り、もう一矢__これは見事に的を貫いた。的には、中心部に近いところにばかり4本。あと5矢を射るのが女の日課だった。
ここは軍学ではなく、学を修める大学である。だが、大学には必修科目として馬術と弓射が課せられている。
女は別段、弓が苦手ではない。むしろ得意だったことがここに来てわかった。無心で居られることが心地よく、修練というよりも手慰みでの日課である。
邪魔もはいることなく、どうにか十矢を射終えて片付け、部屋へと下がろうと踵を返したところでまた龍が空を横切った。その数、三騎。
見上げれば、朝日がちょうど顔を出したところで、思わず目を細める。
朝のこんな寒い空気に、よく上空をあれだけの速さで飛んでいられると感心してしまう。
__まあ、お勤めだものね。
内心そう思っていると、ひゅう、と朝の冷たい風が吹いてきて、容赦なく身体を刺した。思わず身体を震わせて屋内へと駆け込み、部屋へと向かった。
__朝食の後、講義前にビルネンベルク先生が部屋に来てほしいって。
食堂で早めに食事を終え、お茶を飲みながら午前最初の講義に関わる資料を眺めていたところ、学友が女にそう声をかけた。
ビルネンベルクは、東のネツァク州のカルトヴェリーオ地方の名士。多く武官の人財を排出している軍人貴族なのだが、女が教わっている講師ドゥーヌミオン・フォン・ビルネンベルクは文官としての才に恵まれ、教鞭を振るう立場にまでなっていた。
大学において科目により講師は異なるのだが、担当教官のようなものがつく。女の担当教官は、このビルネンベルク。だから、呼び出されることは珍しくはない。
「ビルネンベルク先生、参りました」
扉をノックしてそう声をかければ、入りなさい、と柔らかい口調の許可の下、女は中へ入る。
壁一面書棚の圧迫感がある見慣れた部屋。貴族だからか、ビルネンベルクの部屋は落ち着いた香が焚かれていて、慣れているにもかかわらず訪れる度、すぅっと息を吸ってしまう。
重厚感のある大きな机は、年季の入った琥珀色。いつもならそこに腰掛けている教官の姿がなく、一瞬拍子抜けしていると、こちらだ、と右手奥の暖炉の前に置かれたソファーから声を聞いた。
視線をむけると、たしかにビルネンベルクの特徴である天を突くように伸びた長い兎の耳を戴いた壮年の男が柔和な笑顔でいて、その彼とテーブルを挟んだ向かいで、すっくと立ち上がる男がいた。
榛(はしばみ)色の髪は額にかかることなく、撫でつけられるように整えられ、力強い眼差しの穏やかな蒼は紫みを帯びている。
__あの人は……見覚えはある。
年の頃は、女よりいくつか上のように見受けられる。上背があり、この大学内ではなかなか見かけないほど体躯が立派である。言うなれば異質。だからこそ記憶にうっすらあったのかもしれない。
「そう構えず。こちらへ来なさい」
はい、と素直に従い歩み寄ると、ビルネンベルクは真紅の瞳を細めて笑みを深め、テーブルに置かれていた空の湯呑みにお茶を注いで、着席を促す意味を込めて空いている席の前へと配する。
「君の受ける講義の先生には、後で私から遅れてしまった経緯を伝えておくから」
「はい」
「君も掛けなさい」
ビルネンベルクが更に掛けるように促したのは、立錐したままの男。はい、と歯切れよく答えた男は、元々座っていたであろう女の隣の席へと腰掛ける。
「彼のことは、知っている?」
「……すみません。お見かけしたことはあると思うのですが」
担当教官が同じなら、それなりに顔を合わせることも多く、必然的に友人となる。だが、何事にも例外はあるもの。
「私が担当している学生なんだけど、ちょっと問題を抱えててね。このままじゃ卒業ができないかもしれない窮地なんだ」
「先生……」
「事実だろう?」
男が咎めれば、くつり、とビルネンベルクは笑う。その言葉を受けて、男は押し黙り後頭をかいた。
「お困り、というのは?」
「弓射」
窮地、卒業も危うい、という言葉から、どんなことに躓いているのだろうか__心して尋ねたのに、あっさりと返された言葉。それは、女にとって拍子抜けするものだった。
弓射は必修だ。必修であるが、四肢五体満足な者であれば、ある程度の鍛錬が必要になるが、それでも修められるはずのもの__そういう位置づけである。
「他のことは十分以上なんだが、どうしてもそれだけからっきし上達しなくてね」
ちらり、と男を改めてみれば、視線が合った彼は苦笑を浮かべた。
「君は、私の教え子で一番腕がいいから、見てやってほしいんだ」
「私がですか……」
「うん。弓射ごときで卒業できないどころか落第なんて、前代未聞だ。そんな不名誉な伝説になってもらっちゃ困るし、伝説の学生の担当教官なんてことに、私はなりたくはない」
くつくつ、と笑うビルネンベルクが冗談めかして言うので、女も小さく笑って頷いた。
「わかりました。私で力になるかわかりませんが、他ならぬ先生のご指名ですので」
よかった、と大仰にため息をこぼしてみせるビルネンベルク。それに女は思わず笑ってしまった。
「では、教官殿に自己紹介を」
ビルネンベルクの言葉を受けて、男はすっく、とその場に立ち上がる。その姿は、あまりにも、きりり、としたとしたものだったので、一瞬女は面食らう。
「リュディガー・ナハトリンデンです」
覇気のある端切れのいい自己紹介に、女ははっとしていつもの調子を取り戻し、一切の重心のぶれなく立ち上がる。
立ち上がってみると、改めて男の体躯が立派なことを実感した。
「ご存知かもしれませんが……キルシェです。キルシェ・ラウペン」
「よろしくおねがいします。ラウペン女史」
よろしく、とキルシェが手を差し出すとリュディガーは驚いた表情になる。
その反応に、キルシェはくすり、と笑う。まさかこんな馴れ合いをするとは思わなかったのだろう、と察したからだ。
対して、驚いていたリュディガーはすぐに平静になおり、手をとった。
それは大きく、無骨な手だった。節くれだって、胼胝もあるような手。それは、筆記でできる場所にもあるようだが、そこよりも印象深い分厚い胼胝が、指の腹と掌の指の根本にできているから、内心首をかしげつつも問うことはすまい、と決めた。
「どうぞ、キルシェで」
「わかりました、キルシェ」
__色々な事情がヒトにはあるのだもの。
目の前の畏まった様子のリュディガーに笑みを向けながら、キルシェは思った。
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