173人が本棚に入れています
本棚に追加
刻ノ夢の緒 Ⅱ
狭い車中には、二人きり。
不規則な揺れに軋む車の音が、妙に響く。
一気に火照る顔。
一気に早く打つ心臓。
一気に乾く腔内。
せめて、と腔内の乾きを癒そうと唾を飲み込んで、さり気なく筒状の手元の防寒具から手を抜こうとするが、案の定、彼は手を放してはくれなかった。
俯き、視線を落とす。
「矢馳せ馬を終えて、今日のこの結果なら、落第ということもあるまい、と告げられた」
「先生に?」
キルシェはおずおずと顔を上げると、苦笑を浮かべたリュディガーがいた。
「ああ」
「そう。よかったわ」
「言っとくが、私は落第していたわけではないからな。腕のいい指南役殿のお陰で、すでに修了していたんだ。体裁だということは忘れないでくれよ」
何度目かの、リュディガーのお決まりの言い分だった。冗談めかした口調なのは、緊張していることを察した、彼なりの優しさ__和らげ方だとも理解できて、キルシェは思わず笑ってしまう。
「ええ、わかっているわ」
和やかにしようとしてくれたものの、しかしリュディガーは手を放す気配はないようだった。
「いつの間に、その話を?」
晩餐会の最中、席は離れていたし、晩餐会後も、ビルネンベルク侯と叙勲をされたばかりの龍騎士ということでそれぞれ人垣があって、お互い接近することはできなかった。っして、ビルネンベルクはキルシェの気疲れなどを気遣って、車まで送ったあとは自身だけ戻っていき、リュディガーがしばらくしてから合流したのだった。
「私が荷を受け取って戻ってきたとき、ちょうどすれ違って……元帥閣下とご一緒だった。その時に__と、さっき話したが?」
__あぁ……そういう流れだったの。
「ごめんなさい、ぼうっとしてました」
「ああ。そのようだったな。長丁場だし、仕方ない」
苦笑を浮かべるリュディガーは、くつり、と笑うが、すぐに真摯な顔になる。
「__私は認めるよ。認めない訳にはいかないな、とも」
何が、と問おうとしたが、すぐに言外に含まれた言葉を察することができ、口を噤む。
「……ま、まさかそれで、先生……わざと__」
「先生は、本当に掴まってしまっていた。込み入った話をする様子だった。だから、この格好で大学まで帰るのは目立つし、ビルネンベルクの邸宅に泊まっていけば、ついでに君の護衛もできる。これ以上、疲れている君を車で待たせるのは可哀想だから、先に行ってくれ、と言われたんだ。__まぁ、たしかにそうした部分はあるだろう。あの先生のことだから」
「そう、よね……」
話をする場を設けてくれたのだろう。
大学では、お互いの立場を学友という線引を徹底して過ごしていることも察して、自然に行動をともにできるよう手を回してくれたような御仁だ。
気遣いを察してしまっては、やはりこの状況、穏やかに過ごすことはキルシェにはできなかった。
まっすぐ見つめてくるリュディガーの視線から逃れるように、視線を落とす。
マフの中、しっかりと掴む彼の無骨な手の温かさをより意識してしまって、頬がさらに熱くなるのがわかった。
「__で、私は婚姻の意思はかわらない」
はっきりと宣言する彼。言葉の端々からは、揺るぎない意思に気圧されて答えられないキルシェは、生唾を飲んだ。
マフの中の彼の親指が、掴んではなさない手__右手の薬指の根本の背を確かめるように撫でいる。そこにないが、いずれ嵌めることになる指輪を意識させようとしているのだろうか__深呼吸をして、早鐘を打つ心臓を落ち着け、キルシェは口を開く。
「__もし……」
「ん?」
やっと発した言葉は、思っていたよりも小声で、しかもそこでつまってしまった。
促され、今一度深呼吸をしてから、改めて言葉を紡ぐ。
「……もし、今日の結果が振るわなかったら……どうしたの?」
これは、浮かぶ度、振り払っていた疑問だったが、修了が決定された今でなら、尋ねてもよいだろう__そう思って、素朴に思っていたそれを口に出したのだ。
「それは、起こり得ないから、考えもしなかった」
まるで迷いなく答える彼に、キルシェは流石に顔を上げた。
「確証があったの?」
「ああ、そう。確証があった」
真摯な顔であるのは変わらないが、いくらか普段どおりの柔らかい表情__戻ってきた以前のような穏やかな表情がそこにある。
「その確証というのは、一体何なの? 前もそう言っていたけれど」
キルシェは小首を傾げて尋ねた。
「聞きたのか?」
「聞かせえてもらえるのなら。以前、いずれ話す、って言っていたわ」
リュディガーはわずかに目を見開くも、ふーむ、と鼻を鳴らした。そうしてようやっと手を放し、車の窓の垂れ幕に隙間なく閉めた。
一苑は、灯りは乏しい。道沿いに、ぽつぽつ、とある篝火が照るばかりだった。車の中は、壁に嵌められた光を放つ性質がある魔石の、黄金の柔らかい光のみで、それは外へと逃げることができなくなったから、わずかに明るさが増したように思う。
その明かりの中、リュディガーは腕を組んで、それを土台にして肘をつくようにして片手で顎を擦った。
「まぁ……いいか。もう話しても」
思案すること暫し、ひとりごちる彼の言葉に、キルシェは、怪訝に眉をひそめる。
リュディガーは顎から手を離して、改めて居住まいを正すように腕を組み直し、背もたれに身を預けて前を見た。
「契約者になって、すべて同じ刻の言葉を初めて使えてから、都度、様々な情景を垣間見た。数秒後だったり、数秒前だったり……あるいはかなり先の未来だったり。大抵は、働きかけようとした事柄に係わる景色だ。たとえば、術を発露させた先……大抵はこれ。その結果をあらゆる五感で知覚する。何度かその言葉を使っていると、ふとした瞬間に現在ではないところに飛ばされることがある」
「それって……まさか、先を見たり……?」
「ああ、先だと思われることだ。過去はあるが、それは記憶の中を鮮明に思い出すこととそう変わらない。……変わるには変わるが……まあ、思い出すのとほぼ同義だ。追体験するような感じと言えばいいのか。それとは別に、見たことのない情景を、ありありと五感で視る。実際、その場面にまで刻が進まないとわからないんだ。ああ、あれってこの場面のことだったのか、という具合に、その瞬間まで忘れていて……ということが多い」
「忘れている事が多いのに、確証になるの?」
「私が確証としているのは、たった1つのことだ。それだけは、常に思い出せる」
油断すると飛ばされるんだがな、と自嘲しながら、キルシェを見、そして再び前を見た。それは壁ではなく、その向こうを見通すような、遠い眼差しだった。
「……穏やかな日々を過ごしていた。本当に穏やかな。龍騎士の任務は変わらずあったが、帰るところができて……身軽ではないし……だが、間違いなく張りのある生活だった。だいたい……そう10年かそこら……7、8年だったかな……そのぐらいは過ごしていた」
「過ごす……?」
視線だけを向けて、肩をすくめながら頷くリュディガーは、再び視線を戻す。
「それを最初に見たのは、3年前の、大学に正式に在学していたとき。召集がかけられて、療養を余儀なくされたときだ。その間に、7、8年の歳月が経過する夢を見た」
並ぶ寝台の中、窓辺近くのひとつに横たわった痛ましいリュディガーの姿が、鮮明に思い出され、キルシェは顔をしかめる。
「数日__たしか3日ほどでしたよね、あのとき昏睡していたのは。その間にそれだけ長い夢を?」
「夢も、夢によっては、不可知の領分なんだそうだ」
彼の身の回りの世話をしていた、耳長族のラエティティエルを始め、アンブラやフルゴルもそうしたことを言っていた。
__私も、覗き見たことはあるものね。
得心いかなかったキルシェだが、大学に在籍していた三年前、当時卒業年の秋分に偶発的に不可知の領分を覗き見た。それは夢だと思える不可思議な景色だった。それ以後、そういう領分は常に寄り添うようにそこにあるのだろう、と知ることができた出来事。
「あのときに見ていた夢が、私が言う、確証だ」
「具体的にどんな?」
抽象的にことしか言わないから、それがどうして確証になりえるのか、とキルシェには疑問でしかたがない。
問われた彼は、一瞬、ぎくり、とした顔になった。それは本当に気のせいか、と思えるほどの瞬間的な変化だったが、よく行動をともにするキルシェには気づくことができた変化だ。
最初のコメントを投稿しよう!