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この歳になるまで桜は嫌いだった。
「ちょうど良い区切りだからね」
そう言って摂理のように、君が消えるから。
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十八の春。
同じ大学に進んだはずの君は、入学式にも必修の授業にも現れなかった。
親元を離れ、互いに初めての一人暮らし。
発覚が遅れたのはそのせいだった。
君の母から、連絡がないと嘆く電話がかかってきて、ようやく君の失踪を知った。
当時、成人年齢は二十歳だった。
未成年の君の行方を案じ、私達はすぐ警察に相談した。
お蔭様でどうにか、履修登録が締め切られる前に君は発見された。
海辺の民宿に滞在していた君は、咲き誇る桜花を背景にケロリと宣った。
「旅に出てみたかった」
当時の私は、その言い訳に息を吐いた。
旅をしたいなら、せめて心配をかけない方向でしてくれ。
呆れ顔でそう告げれば、君は曖昧に微笑んだ。
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二十一の春。
独り暮らしも四年目に入り、熟れる頃だった。
君も私も前年に全ての授業を終え、大学では卒論を残すのみの状態だった。
君は再び行方を晦ました。
詰まったポストに胸騒ぎを覚えなければ、君が駅で人助けをしていなければ、君の発見は更に遅れていただろう。
君は随分北に行っていた。
それなのに、現地の桜もほとんど花弁を散らしていた。
また旅に出たかったのか、と問うのはやめた。
失踪はこれで二度目。
もっと深刻な理由があるのかもしれないと固唾を呑んだ。
慎重に理由を問えば君はあっけらかんと答えた。
「桜も咲いたし、区切りが良かったからね」
心配を返してくれと、私が憤ったのは言うまでもない。
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二十三の春。
就職してから一年。
まさか社会人になってからも、君がいなくなるとは思わなかった。
初めての有給を使って山荘を訪ねた。
残雪の中開いた白は、この世のものと思えぬ美しさで。なぜだか無性に焦燥に駆られた。
見付けだした君に、仕事はどうしたのかと問い質した。
聞けば、元々一年きりの契約だったらしい。
三度目ともなれば、それすらわざとかと疑うのも当然だ。
なぜ失踪するのかと問えば、常識を語るような口調で君は言った。
「自分の行いが、他人に影響を及ぼしている。どんなことであれ、それが突然許せなくなる日が来る」
区切りがついて一息吐くと、そんな考えが過るらしい。
この頃から私は桜を見るのが嫌になっていった。
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二十四の春。
前の失踪から一年待たず、君はまた姿を消した。
とうに葉桜になっていた西の端。
諄いほど濃い甚三紅と萌黄の下、君は限界という顔をしていた。
「せめて桜が咲くまではと思って、一年頑張ってきたのに」
口元を歪めて君は俯いた。
まるで君は、君がいなくなることが、世界と君への一番のご褒美だと思っているようだった。
「私は君に、消えてほしくない」
そう告げ手を引けば、君はすんなり戻ってきた。
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二十八の春。
もう四年失踪知らずだ。そう油断してやられた。
正規採用で入った仕事を、君はきっちり引き継ぎまで終え辞めていた。
確かに最近は会う回数も減っていた。
もうどこにも行かないだろう。
そう、やっと息を吐いた、その隙を突かれた。
桜吹雪の中、探し当てた君は初めて泣いた。
「もうそろそろ、どうでも良くなってくれたと思ったのに」
泣きながら私の胸を叩いた。
「ただ生きるだけ、それだけのことが、何でこんなに難しいんだろうね」
その独白に、私は答えを示せなかった。
気付けば最初の失踪から、十年が経過していた。
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「一緒に暮らそう」
二十九の春。
君がいなくなる前にと、先回りして誘った。
街灯に照らされた夜桜を見上げ、隣に立つ君が返した。
「桜、綺麗だね」
応えてくれたと思った。
やっと通じたと思った。
その日、君は私の家に泊まった。
次の朝にはもういなくなっていた。
数日後、見付けだした先で君は呆然としていた。
「なんで分かってくれないの」
私は応えた。
「こっちの科白だよ」
そう言えば、君は少しだけ笑った。
「その返しだけは、ちょっと救われる」
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三十代になっても君との関係は変わらなかった。
君はなぜか、私が君の言うことを聞かず、我儘を言う時だけ笑ってくれた。
数年に一度失踪する君を、段々淡々と見付けられるようになった。
一喜一憂していたのは、若さゆえだったのだろうと妙に達観した。
青き日々よりも熟れ、体力も落ち、君の一挙一動に振り回されなくなった。
君はそれを、何となく喜んでくれているように見えた。
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四十代にもなればコツを掴めるようになった。
仕事、老いた両親、健康。
君よりも優先すべきことが増えた。
君は多分、これ幸いと逃げ出そうとした。
しかし、ふた昔前のようにはいかなかった。
計画性なく、ふらりといなくなれば、必ず尻尾を出した。
私も気付きやすくなったし、君自身背負うものが増えたせいもあるだろう。
捕まるたび、君は苦笑いした。
「もう迎えに来なくてもいいのに」
一度も「ただいま」なんて言ったことのないくせに、何を言っているのだろう。
呆れ笑いを浮かべれば、君もお揃いの顔をした。
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五十五の春。
君は久しぶりに、本格的な失踪をした。
書き置きがあったため、警察には動いてもらえなかった。
長く続けた文筆業からも、君は足を洗っていた。
君の両親の三回忌が終わってすぐのことだった。
親類もなく、とうとう君はいなくなる決断をしたのだろう。
私は焦った。
探偵に依頼し、足取りを追った。
君は用意周到で、私はこれまでになく苦戦した。
桜木がすっかり新緑に覆われた頃、君はひょっこり戻ってきた。
もう打つ手立てがないと憔悴していた頃だった。
憤慨する私に、君は飄々と言い放った。
「踏み入った山で、見事な山桜を見付けてね。なんて綺麗な桜だろうと思ったから、民宿に引き返したんだ」
君はどうしても気になり宿の者に尋ねたらしい。
何故あの桜はあんなに綺麗なのかと。
「女将が教えてくれたよ。あの桜は、地域の皆で大切にしているから、綺麗に咲くんだって」
傷付けられないように。
屍体なんか埋められないように。
その桜は地元民に、大事に守られていたという。
「それを聞いて自己嫌悪してね。ここを終点にするのはやめようと思ったんだ」
浅はかさを悔いたと自嘲し、君は笑った。
「ならどこが良いかって悩んでさ。あちこち放浪して、結局この町に戻ってきた」
君は飄々と笑う素振りを続けた。
それでも堪えきれなかったのだろう、涙が一筋頬を伝った。
「どうしたら良いんだろうね」
半世紀生きた君にも私にも答えは出せなかった。
「消えてしまいたいなぁ」
しみじみ呟く君を、私はただ黙って抱き締めた。
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それからの君は、もうどこにも行かなくなった。
今にも消えてしまいそうな顔に、皺を刻み、入れ歯を入れ、七十九の秋に病気で逝った。
何の区切りでもない、ただ紅葉が綺麗なだけの日だった。
紅葉が嫌いになるかと思えば、そんなことはなかった。
葉が落ち、雪を被り、やがてまた春が来た。
宙に舞う白い花弁をゆったりと眺める。
憂いなく花見をするのは、驚くほど久方ぶりのことだった。
毎年飽きもせず咲いては散る。
儚く眩いその様は、今日まで多くの人間の心を掴んでいる。
八十の春、私は初めて笑い飛ばした。
何が儚い花だというのか。
これで最後という顔をして散り、世代を超えて人々の口に上る。
それなのに翌年もその次も、何事もなかったかのように咲く。
こんなにふてぶてしく大きな顔をする花を、私は他に知らない。
君は何度も消えかけて、それでも最後には戻ってきた。
ふりの時もあっただろうが、多くが本気だったことも知っている。
──『ただ生きるだけ、それだけのことが、何でこんなに難しいんだろうね』
五十余年前そう泣いていた君に伝えてあげたい。
そうやって文句を垂れながら、結局最後まで生き抜いて、逝った君の顔はただただ安らかだったと。
桜が嫌いだった。
もう心をざわつかせる君はいない。
今年の桜はやけに綺麗で、嫌悪も湧きそうになくて──侘しかった。
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