花開けば風雨多し

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 この歳になるまで桜は嫌いだった。 「ちょうど良い区切りだからね」  そう言って摂理のように、君が消えるから。 +++  十八の春。  同じ大学に進んだはずの君は、入学式にも必修の授業にも現れなかった。  親元を離れ、互いに初めての一人暮らし。  発覚が遅れたのはそのせいだった。  君の母から、連絡がないと嘆く電話がかかってきて、ようやく君の失踪を知った。  当時、成人年齢は二十歳だった。  未成年の君の行方を案じ、私達はすぐ警察に相談した。  お蔭様でどうにか、履修登録が締め切られる前に君は発見された。  海辺の民宿に滞在していた君は、咲き誇る桜花を背景にケロリと宣った。 「旅に出てみたかった」  当時の私は、その言い訳に息を吐いた。  旅をしたいなら、せめて心配をかけない方向でしてくれ。  呆れ顔でそう告げれば、君は曖昧に微笑んだ。 +++  二十一の春。  独り暮らしも四年目に入り、(こな)れる頃だった。  君も私も前年に全ての授業を終え、大学では卒論を残すのみの状態だった。  君は再び行方を(くら)ました。  詰まったポストに胸騒ぎを覚えなければ、君が駅で人助けをしていなければ、君の発見は更に遅れていただろう。  君は随分北に行っていた。  それなのに、現地の桜もほとんど花弁を散らしていた。  また旅に出たかったのか、と問うのはやめた。  失踪はこれで二度目。  もっと深刻な理由があるのかもしれないと固唾を呑んだ。  慎重に理由を問えば君はあっけらかんと答えた。 「桜も咲いたし、区切りが良かったからね」  心配を返してくれと、私が憤ったのは言うまでもない。 +++  二十三の春。  就職してから一年。  まさか社会人になってからも、君がいなくなるとは思わなかった。  初めての有給を使って山荘を訪ねた。  残雪の中開いた白は、この世のものと思えぬ美しさで。なぜだか無性に焦燥に駆られた。  見付けだした君に、仕事はどうしたのかと問い(ただ)した。  聞けば、元々一年きりの契約だったらしい。  三度目ともなれば、それすらわざとかと疑うのも当然だ。  なぜ失踪するのかと問えば、常識を語るような口調で君は言った。 「自分の行いが、他人に影響を及ぼしている。どんなことであれ、それが突然許せなくなる日が来る」  区切りがついて一息吐くと、そんな考えが過るらしい。  この頃から私は桜を見るのが嫌になっていった。 +++  二十四の春。  前の失踪から一年待たず、君はまた姿を消した。  とうに葉桜になっていた西の端。  (くど)いほど濃い甚三紅(じんざもみ)と萌黄の下、君は限界という顔をしていた。 「せめて桜が咲くまではと思って、一年頑張ってきたのに」  口元を歪めて君は俯いた。  まるで君は、君がいなくなることが、世界と君への一番のご褒美だと思っているようだった。 「私は君に、消えてほしくない」  そう告げ手を引けば、君はすんなり戻ってきた。 +++  二十八の春。  もう四年失踪知らずだ。そう油断してやられた。  正規採用で入った仕事を、君はきっちり引き継ぎまで終え辞めていた。  確かに最近は会う回数も減っていた。  もうどこにも行かないだろう。  そう、やっと息を吐いた、その隙を突かれた。  桜吹雪の中、探し当てた君は初めて泣いた。 「もうそろそろ、どうでも良くなってくれたと思ったのに」  泣きながら私の胸を叩いた。 「ただ生きるだけ、それだけのことが、何でこんなに難しいんだろうね」  その独白に、私は答えを示せなかった。  気付けば最初の失踪から、十年が経過していた。 +++ 「一緒に暮らそう」  二十九の春。  君がいなくなる前にと、先回りして誘った。  街灯に照らされた夜桜を見上げ、隣に立つ君が返した。 「桜、綺麗だね」  応えてくれたと思った。  やっと通じたと思った。  その日、君は私の家に泊まった。  次の朝にはもういなくなっていた。  数日後、見付けだした先で君は呆然としていた。 「なんで分かってくれないの」  私は応えた。 「こっちの科白だよ」  そう言えば、君は少しだけ笑った。 「その返しだけは、ちょっと救われる」 +++  三十代になっても君との関係は変わらなかった。  君はなぜか、私が君の言うことを聞かず、我儘を言う時だけ笑ってくれた。  数年に一度失踪する君を、段々淡々と見付けられるようになった。  一喜一憂していたのは、若さゆえだったのだろうと妙に達観した。  青き日々よりも(こな)れ、体力も落ち、君の一挙一動に振り回されなくなった。  君はそれを、何となく喜んでくれているように見えた。 +++  四十代にもなればコツを掴めるようになった。  仕事、老いた両親、健康。  君よりも優先すべきことが増えた。  君は多分、これ幸いと逃げ出そうとした。  しかし、ふた昔前のようにはいかなかった。  計画性なく、ふらりといなくなれば、必ず尻尾を出した。  私も気付きやすくなったし、君自身背負うものが増えたせいもあるだろう。  捕まるたび、君は苦笑いした。 「もう迎えに来なくてもいいのに」  一度も「ただいま」なんて言ったことのないくせに、何を言っているのだろう。  呆れ笑いを浮かべれば、君もお揃いの顔をした。 +++  五十五の春。  君は久しぶりに、本格的な失踪をした。  書き置きがあったため、警察には動いてもらえなかった。  長く続けた文筆業からも、君は足を洗っていた。  君の両親の三回忌が終わってすぐのことだった。  親類もなく、とうとう君はいなくなる決断をしたのだろう。  私は焦った。  探偵に依頼し、足取りを追った。  君は用意周到で、私はこれまでになく苦戦した。  桜木がすっかり新緑に覆われた頃、君はひょっこり戻ってきた。  もう打つ手立てがないと憔悴していた頃だった。  憤慨する私に、君は飄々と言い放った。 「踏み入った山で、見事な山桜を見付けてね。なんて綺麗な桜だろうと思ったから、民宿に引き返したんだ」  君はどうしても気になり宿の者に尋ねたらしい。  何故あの桜はあんなに綺麗なのかと。 「女将が教えてくれたよ。あの桜は、地域の皆で大切にしているから、綺麗に咲くんだって」  傷付けられないように。  屍体なんか埋められないように。  その桜は地元民に、大事に守られていたという。 「それを聞いて自己嫌悪してね。ここを終点にするのはやめようと思ったんだ」  浅はかさを悔いたと自嘲し、君は笑った。 「ならどこが良いかって悩んでさ。あちこち放浪して、結局この町に戻ってきた」  君は飄々と笑う素振りを続けた。  それでも堪えきれなかったのだろう、涙が一筋頬を伝った。 「どうしたら良いんだろうね」  半世紀生きた君にも私にも答えは出せなかった。 「消えてしまいたいなぁ」  しみじみ呟く君を、私はただ黙って抱き締めた。 +++  それからの君は、もうどこにも行かなくなった。  今にも消えてしまいそうな顔に、皺を刻み、入れ歯を入れ、七十九の秋に病気で逝った。  何の区切りでもない、ただ紅葉が綺麗なだけの日だった。  紅葉が嫌いになるかと思えば、そんなことはなかった。  葉が落ち、雪を被り、やがてまた春が来た。  宙に舞う白い花弁をゆったりと眺める。  憂いなく花見をするのは、驚くほど久方ぶりのことだった。  毎年飽きもせず咲いては散る。  儚く眩いその様は、今日まで多くの人間の心を掴んでいる。  八十の春、私は初めて笑い飛ばした。  何が儚い花だというのか。  これで最後という顔をして散り、世代を超えて人々の口に上る。  それなのに翌年もその次も、何事もなかったかのように咲く。  こんなにふてぶてしく大きな顔をする花を、私は他に知らない。  君は何度も消えかけて、それでも最後には戻ってきた。  ふりの時もあっただろうが、多くが本気だったことも知っている。 ──『ただ生きるだけ、それだけのことが、何でこんなに難しいんだろうね』  五十余年前そう泣いていた君に伝えてあげたい。  そうやって文句を垂れながら、結局最後まで生き抜いて、逝った君の顔はただただ安らかだったと。  桜が嫌いだった。  もう心をざわつかせる君はいない。  今年の桜はやけに綺麗で、嫌悪も湧きそうになくて──侘しかった。
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