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チェスの盤面で
「これで最後になると良いけど」
私が王を持ち上げながらそう呟くと、チェス盤を挟んで対面に座っている若い男性が微笑む。…まずい、聞こえてたか。
ちらりと反応を伺うが、表情からは感情が、あまり読み取れなかった。が、機嫌が悪いわけでは無さそうだ。ホッと心の中で安堵する。と言っても、彼はあまり声を出さないので良さそう、という私の個人的な感想でしかないが。
二年前、私が建てた新築の一軒家の隣に、この男性が一人で引っ越してきた。あんな広い家に一人とは中々勿体無い。それよりも、どこからそんなお金が出てくるのかと不思議に思ったが。
彼の名字は佐藤。珍しくも無い名前だ。かくいう私も田中と、他人の事を言えたきりでは無いのだが。
彼は引っ越してきた際に、無言で微笑みを浮かべながら、私に菓子折りを渡してきた。まぁいわゆる、お隣さんなのでよろしくってことなんだろう。
そんな無口な彼が、一年前、窓からチェスを行っている姿を見た事がある。一人暮らし、しかも見たところ交友関係も薄いのか。相手はおらず、白と黒を交互に動かしている。私はそれを見て、次の日に一緒にチェスをしようと誘ったのだ。久しぶりに同じ趣味を得た、と思った私は、ほとんど毎日のように彼の家へと通い詰めていた。……まぁ、最近はその必要もないのだけど。
チェスは八×八の盤面で、コマが六種類ある。
まずは基本の歩兵。歩兵は最初を除いて前に一マスしか進めず、相手のコマは斜め前のみ取れる。また敵陣営の1番奥まで行くと、クィーン、ルーク、ビショップ、ナイトのどれかになれるプロモーションが可能になる。
次に、守らなくてはならない王。周りの八マスしか動けないが、相手に取られたら、敗北。
最も強いコマと言える王妃。前、横、斜め。全ての方向に動くことが出来、ポイント制ゲームでは1番高いポイントを与えられる。
斜め移動が可能な高僧。コマがあるところまで進むことが出来る。
縦横移動が可能な城。条件を満たせば、キングと自分の位置を交換することが出来るキャスリングという指し手がある。
最後に王を守る騎士。二マス縦横に進んだ左右に動くという少々特殊な動きをする。さらに、コマを飛び越えることもでき、その特異さは油断すると自分のコマを取られかねない。
…とまぁチェスのルール説明はこの辺りにするとして。今日も今日とて、私は気づかなかった。
「敗北」
彼の言葉に驚いて盤面を見ると、成程。 敵陣営、すなわち私の方、に歩兵がたどり着いた事により、プロモーションが行われクィーンへと成っていた。そのクィーンとルークに挟まれ、王は身動きが取れない。つまりこれは、将棋で言うとこの「詰み」である。
「あー…また負けた…」
私が項垂れると、彼はやはり笑うのみだった。
私は今のところほぼ全敗。なんとか引き分けに持ち込んだ時はあったものの、それも、かなり負けに近い引き分けと言えるだろう。
何故かはわからないが、彼はチェスが強い。彼の職業、年齢、家族構成。色んなことを聞いてみたが、彼は笑って誤魔化すばかりだった。
だから、もしかするとチェスの選手だったりするのかもしれない。なんて思ったりしている。
「田中さん、一つ前が悪手だったんだ。王を守るのに必死になって自分の王妃を取られた。結局、王は簡単に取られてしまったんだよ」
そんな事を考えていると、珍しく彼の方から口を開いた。
「な、成る程…」
やはり、王妃を取られるような動きをしたのは悪手だったのか。なんとか王妃に注意を行かせて、その間に王を逃がそうと思ったのだけど、あっさり見破られたらしい。悔しい。…早く、勝たないと。
「はぁ…こんなんじゃ…」
ため息を吐くと、彼はふふっと優しく笑っていた。
「大丈夫だよ。前よりはすごく上手くなってる」
それはそうだ。彼が家に居ない時も、私は必死にチェスと睨めっこだ。どうしたら勝てるのか。どうしたら負かせられるのか。それを考えるのが、今の私の拠り所だ。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、いや間違いなく知っている…笑うと、私の右手に触れて、自分の手に持っているものをそっと私の手にかけた。
カチャリ
という音が鳴る。…あぁ、今日もダメだった。項垂れる私をよそに、彼は満足したようにベッドから降りた。
〈彼の〉ベッドの上で、〈毎日〉のように行われるチェス。
私は手足に鉄枷をつけられている。お風呂もトイレも、そもそも立ち上がる事さえ、彼が居なければ出来ない。
…そう、私は一年、ずっと彼に監禁されている。理由は聞いたことがあった。一目惚れだったらしい。イマイチ理由としては違う気もするが、要は誰にも渡したくないってことなんだろう。そんな小説はよく見るが、まさか自分がこうなるとは思いもしなかった。
「さ、ご飯だよ。田中さん」
今日は白米とハンバーグだった。普通の家庭なら、普通の状況なら、喜ぶご飯だ。でも、今が普通じゃない。
「はい、あーん」
「んっ」
「よしよし、食べれたね」
手足が自由に動かせないのだから、彼に食べさせてもらうしかない。一度、手だけ良いから外して欲しいと言ったのだけど、彼にとっては私が自由になったら逃げてしまうかもしれないから、と否定されてしまった。
「ご馳走様でした」
「うん、今日も食べられたね。おやすみ」
彼は私の言葉ににっこりと笑うと、部屋を出て行った。
…私が何故チェスをひたすらに行っているのか。それはここから出て行く為に必要なことだからである。
チェスで彼に勝つこと。
これが私が唯一出ていける、方法であり手段だった。
明日には、見えるだろうか。終わり《エピローグ》が。ここから出ていけるだろうか。ほんのわずかな希望を抱きながら、私はこの絶望の中生き続ける。
もう終わる?これで勝てる?甘くはない…
分かってる。
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