「またね」

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「またね」

 チン、と到着の合図を鳴らしたエレベーターは、静かに扉を開いた。  私の部屋のある階の廊下が見えている。 「おねーさん......」 「......」  少年が一歩下がる。  そうすると、額にぶつかっていた少年の額が離れ、熱も遠ざかる。  ラーピンを床に下ろして、ポケットにしまっていたスマートフォンを確認する。  まだ圏外のまま。  しかしかすかに電波を拾い始めているようだった。    ぐるぐるする思考の中で、一歩、また一歩とエレベーターの外へ。  完全に外に出ると、エレベーターの中よりも少し明るい廊下。  エレベーターの中では聞こえなかった小さな生活音が聞こえて来る。  振り向けば、ショックを受けたような、今にも泣き出しそうな少年の表情が見えた。  カラカラと、喉が渇いて仕方がない。  緊張と、罪悪感。  さよならは、いつだってこんな気持ちになる。  スマートフォンの画面をタップし、そして電源を切った。  ゴウン、と扉が閉まり始める音がした。  9月6日  午後10時03分  狩野京子  メゾンディベルトの4階の住人  1人で住むと見られるマンション内にて失踪。  通報者は飯田薫。  失踪した狩野京子の友人。  飯田グループの息子。  事件に関与の可能性なし。  失踪前、最後の会話をしたのは同じマンションに住む学生の十凛子。  9時15分頃、失踪した狩野京子と雑談、エレベーター内での奇妙な話を聞き、徒歩数秒のコンビニエンスストアから帰宅後、狩野京子の部屋を訪ねるも反応は無し。  9時30分、  飯田薫に送られたメールを最後に、行方不明に。  エレベーターの監視カメラを確認。  本人が乗り降りする姿以外は確認できず。  黒いモヤのようなものが映り込むが、埃であると判断。  4階で一度降りるが、すぐにエレベーター内に戻るところを確認。  最上階でエレベーターを降り、その後の消息は不明。 「なんですかね、この4階で一度降りてるの」 「なんだろうな」 「古いカメラなんでしょうか。不鮮明で表情まではわかりませんね」 「自らエレベーターに乗っているあたり、誘拐の可能性はなさそうだな」 「奇妙な事あるもんですね。この女性は会社でうまく行ってなかった訳でも、家庭にトラブルを抱えていた訳でもないそうです。少し遠くに住んでいますが、連絡はいつでも取れる状態だったようです」 「借金や、SNSなんかは?」 「それもないようです」  マンションの4階、狩野京子の部屋を見回しながら細身の刑事が呟いた。ヒョロリと長い体を縮こませながら、引き出しや冷蔵庫などを隈無く探していく。   「何かありそうか?」  ぼてりとした腹のでた男は小さなハンカチで額の汗を拭いながら、手帳を開いた。  そこには何も書かれていない。  サボっているわけでも、書きたくないわけでもなく、書けることが見つからない。その事が問題だった。 「なーんにもないっすね」  文字通り何にもなかった。  冷蔵庫に入っているのは数本のビールと、水。  無造作に立てかけられた、チューブの薬味。  それはもう何ヶ月も忘れ去られているのか、とっくの昔に賞味期限が切れていた。  流し台は綺麗にされていて、食器棚には綺麗に食器が並べられている。   「そうか」 「あの……」  そう声をかけたのは、玄関の前で立ち尽くす、狩野京子の友人である、飯田薫という青年であった。 「中、入ってもいいですか?」 「いいですよ。ね、先輩」 「ああ、何もでんかったからな」 「では、我々はこれで」 ◆  京子の部屋に入ると、食い意地の張ったあいつらしく、菓子の袋がゴミ箱に捨てられ、テーブルの上には今すぐ食べようとしたと思われる、封が切って間もない菓子パンがあった。  近所のコンビニで売っている、人気のラインナップのものが数個置いてあった。消費期限を見ても、最近買ったことがわかる。  封の切られた袋の中身に触れれば、パン自体はまだ乾燥しておらず、「今食べようとした」ようにしか見えなかった。    特段、どこかに行こうとしたとは到底思えない室内に、今すぐにでもひょっこり現れそうな、そんな気配すら感じる。 「あいつ……勝手に消えないって言ったのに。こんな、たった一言メールだけなんて......」  スマートフォンを見ると、最後のやり取りが表示される。 「またね」  たった一言。  たった一言が送信されただけの、寂しい画面。  急いで打ったのか、いつもは文章の後につけられる忙しなく動くスタンプもない。  シンプルな文字が3つ。    スマートフォンの画面をそっとテーブルに伏せて、目を閉じた。  目を閉じてしまえば、人の家に勝手に入って寝てる!と怒り始める京子が現れるのではないかと、そう期待しながら、声がかかるのを待った。  ぶぶぶ、と震える振動音で目を覚ました。  うっかり京子の部屋で一夜を明かしてしまったらしい。    窓を見れば、うっすらと日が登り始め、眩しい光が部屋に入りこみ、思わず目を細めた。  アラームが鳴ったのかとスマートフォンを見ると、一件のメッセージがあった。  ハッとして、思わず息が止まる。 「は、え?」  情けない声がでた。  冷蔵庫の起動音だけが響くような静かな部屋で、自分の声が大きく聞こえた。  震える手で、メッセージをタップし、アプリを起動させれば、たった一枚だけ写真が写し出されている。  急いで、返事を打ったが、たった一枚の写真の下には自分のメッセージが蓄積されていくだけだった。  写真には笑顔で見知らぬ男性と写る京子の姿。  自分の知っている彼女よりも、ほんの少し歳をとったような、大人びた表情だった。  随分と時間の経過を感じる写真に、ふと以前聞いた、会うたびに成長している少年の話を思い出した。  本気になんてしてなかった、あの会話を思い出す。  震える手で、いつか、もしかしたらと、君に届くと信じて、既読のつかない画面に打ち込んでいく。    ありきたりな挨拶や、勝手に消えた恨みつらみを丁寧に文章にしたためてやった。  このメールがあいつに届いた時、どんな顔するだろう、なんて考えて。  送信ボタンを押す前に、やめた。  打ち込んでいた内容を、一文字ずつ、丁寧に消して、新しく一言だけ打ち込んだ。  部屋を出て、エレベーターに乗り込む。  もしかしたら、彼女のところに行けるかも、なんて期待を込めて、ボタンを押した。 「またな」  少し古びた、どこにでもあるエレベーター。  その扉が、左右から均等に動き出し、静かに閉まった。  チン、と、どこかの階でエレベーターの到着音が鳴った。  どこかで、あなたの運命を変える扉が開くかもしれない。  それは  エレベーターかもしれない  それは  自宅の玄関かもしれないし、学校の図書室かもしれない。    繋がっている先は、ほんの少しの未来か、はたまた遠い異世界か。  選ぶのは、あなた次第。
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