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1 僕の手を掴んだ人
「私、彼と付き合ってるんです!」
金曜日から土曜日にあと1時間もすれば日付が変わる夜。アルバイトをしている店の裏口を出た途端、細く白い手が強引に僕の腕を掴んで、僕では無い誰かに、強く言った。
僕はこの状況に心当たりが無さ過ぎて、訳が分からなくて、フリーズした。
「だからもう、諦めてください!」
「そんな嘘で俺が諦めると思ってるのなら反対だよ。こいつなんかより、俺の方が何倍もいい男じゃないか」
「だから、あなたのそういう所が好きじゃ無いんです。私、彼の地味な見た目と、地味な性格が好きなんです。それに彼、私の為なら何だってしてくれるの。今日だってこれから私が大好きなビーフシチューを作ってもらうんだから」
「地味な恰好がいいならすぐに着替えるし、地味な性格がいいなら大人しくする。それに、俺だって今まで澄香ちゃんがお勧めするパンを沢山買っただろ。これからだって…そうだ、ビーフシチューなら美味しいお店を知ってるよ。こいつが作るものとは比べ物にならないくらい美味しいから明日、食べに行こう」
すっきりとした身なりの男の人が貼り付けたような笑顔で、聞き分けの悪い子供をなだめるように僕の腕を掴んでいる女の人を説得しているが、女の人は首を振って更に僕の腕を引っ張って絡みつく。男の人は女の人を僕から引き剥がそうと空いている方の腕を掴んだ。女の人は必死に掴まれた腕を振りほどこうと、力いっぱいブンブンと腕を振るが、そう簡単には離してはくれない。そうしたらためらうこと無く、細い足で男の人の脛を思いっきり蹴った。
「痛ってぇー」
男の人が脛を抑えてしゃがみ込んだ隙に、女の人は僕の腕を引っ張って走り出した。
え?何で?何で僕も走ってるの?
理由も状況も全然理解できないけれど、もめごとに巻き込まれてたことだけは理解しながら、女の人に手を引かれながら全力で走る。
女の人は、後ろを振り返ることなく路地裏まで来ると、店と店の隙間に入り、暗闇の中に僕を引き込んだ。
水の中にいる訳じゃ無いのに、どんなに早く呼吸をしても、酸素が足りないくて、壊れるんじゃないかと思うほど早すぎる鼓動を、どうにかしたくて胸に手を押し当てて、無理やり押さえつける。
しばらくすると少しだけ呼吸が楽になり、隣で座り込んで僕と同じように息を整えている女の人の姿が視界に入った。
「…あの、大丈夫ですか…」
息を継ぎながら、何とか声を掛けると、女の人は僕を見上げて無言で頷いた。
「…じゃぁ、僕はこれで…」
「ごめんね。辰巳君を巻き込むつもりは無かったんだけど、あの人がしつこくて、つい…」
「どうしてっ!僕の名前…?」
知り合いでは無い人に名前を呼ばれて、落ち着き始めた心臓が大きく跳ねた。
「私たち、同じ大学なのよ。学部は違うけど」
思わぬ共通点に納得のような、納得できないような…。
「私、文学部3年の東 澄香。理工学部3年の辰巳 有吾君、今日はありがとう」
「…どういたしまして…」
自己紹介からのお礼に対して形式的に返したが、疑問を問うて答えを得るよりも、これ以上面倒なことに巻き込まれる方が嫌なので、何も気にしない事にして会話を終わりにした。
「じゃぁ、僕、帰ります。東さんも気を付けて」
ぺこりと頭を下げて、暗闇から抜け出そうとしたら、ジーンズの裾を引っ張られて、危うくこけそうになった。
「ちょ、ちょっと、危ない。何するんですか」
思わず声を上げて、振り返る。
「それが人間のすることなの?」
「へ?何が?」
「か弱く可憐な女子が、気のない男に強引に迫られてるのを、巻き込まれたといえど助けたのに。夜も深いこんな時間に、人通りの少ないこんな路地裏で一人置き去りにするなんて、良識ある人間がすること?」
「お言葉ですが、人気も無くこんな暗い所に連れて来たのは東さんだし、男の人を足蹴にする人がか弱いとは思えません」
「それでも!こんな所に置いて帰るなんて、信じられない。せめて、家まで送ります、とか思わないの?」
あぁ、そうか。
僕は自分の事しか考えて無かった。東さんは、横柄な言い方をするけど、まだ恐いんだ。あの男の人がまたどこかで待ち伏せしてるかもしれない暗い夜道を一人で歩くことが。
「ごめん。僕にとってはあまりにありえない出来事だったから、自分の事しか考えられなかった。家まで送るよ」
僕が態度を一変させると、東さんはポカンとした顔をしてジーンズの裾を離してくれた。
僕が右手を差し出すと、東さんは白い手をゆっくりと重ねた。僕の手よりも冷たい手は、東さんが今までに見せた態度からは思いも寄らないくらい頼りなさげで、「か弱い」と言った言葉が当てはまって、置いて帰らないで良かったと思った。
「家、どこなんですか?」
僕に引き上げられて立ち上がった東さんに、行き先を尋ねた。
「辰巳君のアパートの近く」
「え?本当?」
「本当。だからとりあえず、自宅に向かって」
東さんの指示通り、自宅に向かおうと路地裏を出る時、東さんは凄く自然に僕と手を繋いだ。
「え?何で?」
「あいつが何処で見てるか分からないから、帰るまでは彼氏になってもらわないとね」
「はぁ。じゃあ、そう言う事なら」
僕も繋がれた手に力を込めて、並んで歩きだした。
人通りの少ない夜の道は、慣れているはずなのに、隣に手を繋いだ人が並んで歩いているだけで、初めて歩く道のように感じた。
何か話をしたりした方がいいのは、社交性のない僕だって分かっているけど、何を話せばいいのか分からないから、ただ黙って歩いていると、いつの間にか僕のアパートの近くまで来てしまった。
「東さんのアパートは、もう少し先かな?」
僕のアパートの前で立ち止まり、送り届ける場所を聞く。
すると、東さんは繋いている手に力を込め、更にピッタリと体を寄せて、背伸びをして僕の耳に顔を近づけた。
「絶対に振り向かないでね。…つけられてる」
東さんの囁く声に身体を固くして、反射的に振り向きそうになるのを必死に我慢した。
「どうしよう」
僕も囁き声で質問する。
「ここは、最終手段しかない。行こう」
東さんは僕の答えを聞かずに、僕のアパートの階段を上って僕の部屋の前まで来ると、「早く開けて」と言って、あっという間に僕の部屋に入ってしまった。
「何でこれが最終手段なんだよ」
「だって、若い男女が一つの部屋で一晩を過ごせば、それはもう付き合ってるになるでしょ。それを見せつければ、さすがにあいつも諦めるわよ」
「一晩って、朝までここに居るつもり?」
「そう。今出て行って鉢合わせでもしたら作戦が台無しでしょ。だから、しっかりと既成事実を作るのよ」
「既成事実って!僕はそこまで付き合えないよ」
「何か、エロい想像してるみたいだけど、それは私もごめんだから。一晩一緒にいるけど、朝まで指一本触れないで。もし変な事したら社会的に抹殺するから」
「し、しないよ。エロい想像もしてないし。指一本も触れないよ」
「本当?」
「本当に」
「じゃあまず、この手を離してもらえるかしら?」
東さんが持ち上げた手には、僕の手がしっかり握られており、指一本どころじゃ無かった。
「ご、ごめん。これはノーカウントで」
僕は焦って、手を離すと、東さんから一歩離れて、両手を上げた。
「OK、じゃぁ今からスタートね」
焦っている僕とは反対に、東さんは楽しそうに笑って、部屋の中に進んで行った。
「ねぇ、お腹空かない?」
「…空いてる」
「じゃ、これ。一緒に食べよう」
小さなテーブルの上に鞄から取り出したビニール袋の中身を全部出した。
「今日の売れ残り。でも、すっごくおいしいから」
テーブルに置かれたのは、色んな種類のパンで。視覚と嗅覚が僕の胃袋を刺激して、大きな音で「グー」とお腹が鳴った。
僕たちは東さんがくれたパンをお腹いっぱい食べると、眠たくなって、TVを見ているうちにどちらともなく寝てしまった。
犬とじゃれ合っている夢がドアの閉まる音で途絶えて、何とか起き上がったた時には、東さんの姿は無かった。きっとあのドアの音がした時、帰ったのだと思って、もう一度寝た。
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