2 僕の日常にやって来た人

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2 僕の日常にやって来た人

 月曜日は一限目から最後まで授業があるので、鞄は重いが高校生の時から使っているリュックサックは所々擦り切れてきているけど、僕の身体に馴染んでいて使いやすい。  朝のラッシュに押しつぶされそうになりながら、いつものように肩幅に足を開いて体幹を締め、両手をリュックの肩紐を掴みながら何とか電車の揺れに耐えていると、肩紐を握る右腕に重力を感じて視線を動かした。  重力の正体は白い手で。これが俗に言う「痴漢」なのだろうか?と判断を決めかねていると、その白い手が強く腕を引っ張ったので、白い手を伝って視線を動かすと、東さんが険しい顔をして僕を見ていた。  「電車乗る前から何度も名前呼んだのに、全然気づかないなんて、ひどくない?」  「ごめん」  何時から名前を呼ばれていたのだろうかと考えたが、僕の耳に届いていないのだから、分かるはずも無い。  「ヒールなのに辰巳君を追いかけて走ったんだから、この満員電車では私を守ってよね」  理解に苦しむ理由を少々理不尽だと思いながらも、僕の中の翻訳機能が「ハイヒールの足元が電車の揺れでおぼつかないので、助けてください」と変換したので、黙ってうなずいた。  電車が駅に止まり乗客を降ろしては乗せるのを繰り返す度、僕と東さんの距離は近づき、東さんのハイヒールが他の人の足を踏まないようにと気遣っていたら、いつの間にか東さんは僕の腕の中にいた。  僕の左手は吊革に掴まり、右手は東さんの背中に回し、電車の揺れによろめかないようにしっかり支えている。  胸から伝わる体温と、腕の中から香るいい匂いが僕の中に埋もれていた正義感を掘り起こし、恥ずかしげも無く大胆な行動をとらせているのだろうか。  今日を含め2回しか会ったことが無いのに、こんな風に人と接することが出来るなんて、知らなかった。自分の意外な一面に驚いていると、降りる駅に着いたので、当たり前のように東さんの手を取って電車を降りた。  出口へと向かう人の流れから抜け出すようにホームの端で立ち止まり、僕の後ろにいる東さんに振り返ると、東さんは顔を赤くして僕を見ていた。  繋いでいる手は冷たいのに、顔が赤いのは熱でもあるのだろうか?  繋いでいる手を離し、東さんのおでこに手を当てる。  「顔が赤いけど、熱?んー、良く分からないけど、高くは無さそう。満員電車だから暑かった?」  おでこの温度は僕の手と同じくらいだったから熱は無さそうだけど、頬は赤く熱そうで、今度は頬に手をやって熱を確かめた。  東さんは僕から視線を下げると、頬に当てた僕の手を握って呟いた。  「…そういうとこだよ…」  やっぱり、東さんの言葉は僕の理解を超える。頭の中の自動変換機能は機能しなかったので後で考える事にして、東さんに握られた手を頬から外し、しっかりと東さんの冷たい手を握った。今、ホームに入って来た電車から新たな人の流れが出て来る前にこの場所を離れようと、東さんの手を引いて改札に向かった。  「ねぇ。大学でも私の彼氏のフリをしてくれない?」  改札を抜け、大学に続く道に差し掛かったところで手を離したら、頬の赤みが収まった東さんが、今度は唇を尖らせて、土曜日の夜と同じ顔をしてまた理解しがたい言葉を言った。  「今度はどんな理由で?」  「私、モテるの」  「はぁ」  「今、彼氏がいないからアプローチがすごくて」  「はぁ」  「それが、ウザいから。虫よけの代わりに、次の彼氏ができるまで、彼氏のフリをして欲しいの」  「はぁ」  確かに東さんは奇麗な人で、電車の中でもホームでも視線を集めている。あの夜には気付かなかったけれど、キラキラしてるキラキラ界隈の人だ。  自分とかけ離れた人から発せられる言葉は、こんなにも理解できないものなのかと思いながらも、何とか理解しようと東さんの言葉を頭の中で反芻していると、それを邪魔するように東さんは僕の返事も聞かないうちに冷たい指を絡めて手を繋いだ。  「そう言う事だから、よろしく、有吾」  僕の気持ちを伺うように見上げる顔は、強引な言葉と行動には似つかわしくないくらい不安そうな目をしていた。  「この間のような手荒なことには巻き込まれたくないから、断りたい気持ちが山々だけど、東さんがこの間のように一方的に男の人に付きまとわれるのも可哀そうだと思うので、仕方なく付き合います」  「…ありがとう…」  東さんはキョロキョロを瞳を動かしながら俯いてしまって、お礼の言葉はかろうじて聞こえたくらいだった。  この人は、言葉と感情と行動が全部バラバラなのかもしれない。なぜか、そんな理解しがたい生態に少しだけ、興味を覚えた。  「あの、彼氏役を引き受けるにあたり、お願いが一つあります」  「何?」  「連絡先を交換しましょう。僕のいないところでまた男の人に言寄られたら怖いでしょうし。僕の出来る範囲で東さんを守りたいので、迅速に連絡を取るために。お願いします。あぁ、もちろん、連絡は必要最小限にしますし、迷惑なら、僕の方だけでも」  ポケットに入っているスマホを取り出して、僕の連絡先を表示した。  「そう言う事なら、しょうがないな。まぁ、別に有吾なら、毎日連絡してきてもいいけど」  はにかむように笑った東さんが、鞄の中からスマホを取り出して、僕の連絡先を読み取って、すぐに僕に返信した。  「じゃぁ、私も」  「はぁ」  「澄香って呼んで」  「はぁ?」  「一応、彼氏なんだから、私が名前で呼んでるのに、有吾が苗字で呼ぶと温度差感じるでしょ。だから、今から澄香って呼んで」  「はぁ」  そう言えばいつの間にか、東さんは僕の事を「辰巳君」ではなく「有吾」と名前で呼んでいる。僕の人生の中で、名前を呼び捨てにした事がある人は、弟と実家で飼っている犬くらいで。赤の他人を、しかも僕の認識では2回しか会ったことが無い人の名前を呼び捨てにするのは、かなり心的負担が大きい。しかし、彼氏役を引き受けると決めたからには、その役名を全うしたい気持ちもあり、僕にとって最大限に歩み寄って、名前を呼んだ。  「澄香さん」  「…さん?」  「これが僕の最大限です」  「…分かった。じゃぁ、今はそれで」    決して軽い気持ちで、澄香さんの彼氏役を引き受けた訳じゃ無かったけど、その役目の重責は、僕の想像をはるかに超えていて、僕の日常は大きく変化した。        
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