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4 僕が知らなかった世界
金曜日。
澄香さんの友達に言われた通り、昨日買った服を着て、何とか髪をセットして大学に行き、いつものように澄香さんと一緒に昼食を取る為に学食で待っていると、昨日僕を連れまわした友達たちと一緒に、澄香さんが学食に入ってきた。いつもなら、真っすぐ僕の前の席に座るけど、入り口の辺りでキョロキョロと見渡して、視線は何度か僕を素通りした。澄香さんの隣で楽しそうに声を殺して笑っている友達たちが、我慢できないといった様子で澄香さんに耳打ちして、僕を指さして居場所を教えた。
澄香さんは大きな目をもっと大きく見開いて、僕に直進してくると「有吾?」と聞いたので「はぁ」と返事をしたら、澄香さんはまだ入り口で僕たちの様子を楽しそうに見ている友達をきつく睨んで、持っていたカフェラテを僕の頭の上でひっくり返した。
予想外の出来事に驚いたけど、頭皮に感じるカフェラテが冷たくて、随分な仕打ちに怒りを覚える前に「熱くなくてよかった」と安心した。
「有吾の変身ぶりに驚いて、手元が狂った。急いで着替えなきゃ。行こう」
澄香さんは着ていたカーディガンを僕の頭にかけて、何時かみたいに僕の手を引いて、学食から駆け出した。
カフェラテの甘くてほろ苦い香りと、澄香さんのカーディガンから香る瑞々しい花のよう香りが混ざり合い、視界が制限される僕の世界は澄香さんに付属するものだけになって、公共の場にいるにも関わらず、世界に二人だけではないかと、錯覚してしまいそうになった。
学食を出て中庭を抜けて大学の外に出てもまだ、無言で僕の手を引き走る澄香さんに、カフェラテをかけた本当の理由を聞こうと思ったけれど、頭にかけられたカーディガンの隙間から見える横顔が悲しそうに見えたから、後で聞くことにして、だた黙って手を引かれることにした。
しばらくすると立ち止まり、「ここで待ってて」と手を離された。頭にかかっているカーデガンを外して周囲を確かめると、大学の近くの商店街にいると分かった。その中で、澄香さんが入って行ったのは、驚くほど安い値札が並ぶ衣料店で、実家の祖母が着ているような服が所狭しと並んでいた。澄香さんの着ている服とは嗜好が違い過ぎてどうしてここに入ったのか理解できないでいると、白いビニール袋を下げた澄香さんが出てきた。そして、再び僕の手を引いて商店街を進む。一つ右に曲がるとすぐに立ち止まり、僕の手を離した。
「これ、着替え。ここでキレイにして来て」
澄香さんが連れてきてくれたのは小さな銭湯で、渡されたビニール袋の中には無地の白いTシャツが入っていた。
「ありがとう」
遠慮なく受け取り銭湯に入った。
僕以外の客は白髪のおじいさんが二人だけの銭湯で、カフェラテの匂いが消えるまでしっかり頭を洗い、体もしっかり洗ってから、僕には少し熱く感じる湯船に肩まで使った。
本来なら、今頃午後の授業が始まる頃で、僕は講義室の前の席に座っている事だろう。なのに、湯船につかっているなんて。体調不良以外で授業を休んだことが無い僕は、初めて「サボる」と言う事を経験した。こんなことをして、動揺や背徳感でいたたまれなくなるのではという懸念が一瞬頭をかすめたが、明るい浴室で広い湯舟にゆったりと浸かっている現状は、僕に起こっている全ての事をどうでもいいモノにしてしまい、体の中にたまっていた今週のモヤモヤとした気持ちを、額から流れ出した汗と一緒に身体の外に出した。
普段はシャワーだけで済ますことが多いので、久しぶりの湯船は気持ちが良くて、長く入っていたかったけれど、直ぐにのぼせてきたので、無理をせず脱衣所に出て掛け時計を見ると、20分も入っていた事に驚いた。急いで澄香さんが買ってくれたTシャツを着ると、濡れた髪のまま銭湯を出た。
澄香さんは銭湯の前で膝を抱えて座り込んでいて、何人かの男の人に声を掛けられているけれど、聞こえていないようにじっと地面を見ていた。その姿は、迷子の子供が迎えを待っているように心細そうに見えて、僕は「澄香さん」と声を掛けた。そんなに大きな声じゃなかったのに澄香さんは直ぐに顔を上げて、真っすぐ僕の方を見た。僕は澄香さんの視線に引き寄せられるように澄香さんの華奢な腕をとり、男の人たちから逃げるように歩きだした。
行き先も決まらないまま商店街の中を進んでいたが、風呂上がりの熱い僕の手から伝わる澄香さんの腕は冷たくて、足を進めながらも大人しく僕に手を引かれている澄香さんに問いかけた。
「寒いの?」
「…ちょっと。今日はいつもより気温が低いから」
澄香さんの言葉でようやく彼女がノースリーブでいることに気が付いた。いつも手が冷たいのは冷え性で、夏も冷房が苦手で長袖が手放せないと言っていた事を思い出した。まだ夏を感じるには早い6月の曇り空は、半袖でも平気な僕と違って、澄香さんにとっては肌寒い季節なのかもしれない。
着ていたカーディガンを僕の頭にかけたからか。
それに気が付かず長湯して、澄香さんを待たしてしまった事に罪悪感を感じた。目に付いた古びた喫茶店に入ると席に着く前に「ホットカフェラテとアイスコーヒー」を注文した。
「カフェラテは無いからカフェオレでいいかい?」
カウンターの中にいるマスターがメニューの変更を提示したので、無言で頷くと、一番奥の4人掛けの席に着いた。
ワインレッドのソファーに向かい合って座ると、澄香さんは自分の腕を抱えて、寒さをしのぐように腕をさすり出した。
僕は澄香さんの鳥肌の立つ腕に触れ、もう一度体温を確かめる。
風呂上がりの僕の体温が真夏なら、鳥肌の立つ澄香さんの体温は真冬だ。まるで真冬の空の下で凍えているようだと思ったから、僕は迷うことなく隣に座り、ピッタリとくっつくと、澄香さんの華奢な肩を包み込むよう腕を回した。
「これはエロい下心とかじゃ無いから。あまりに寒そうだから、カフェラテが来るまで僕の体温で暖を取って」
澄香さんは驚いて僕を見て、拒否することなく頷いて、俯いた。
僕の腕の中にいる澄香さんは、凍えた子猫のように見えて、僕の中の仕舞われていた庇護欲が顔を出し始めた。
「温かいカフェオレを飲んで、今をしのげても今日一日、その恰好じゃ寒いよね。何か着るものを買わないと…」
澄香さんの肩を抱きながら、大きな窓の外を見ると、斜め向かいに、僕のTシャツを買った店が見えて、ハンガーに吊るされた花柄のサマージャケットが目に入ったので、思わず指を指した。
「とりあえず、あそこで何か買って来るよ」
「はぁ?嘘でしょ?要らない」
僕が指さした方を見た澄香さんは、キレイな眉を寄せて心底嫌そうな顔をして拒否をした。
「でも、このままじゃ寒いし。着ていたカーディガンは、カフェオレのシミがついてるから、クリーニングに出さないと着れないし。僕が来てるTシャツもあそこで買ったんだから、澄香さんが着られそうなものもきっとあるんじゃ無いかな」
「やだ。絶対やだ。あそこで買うくらいなら、凍えて風邪をひく方を選ぶ。それに、今はこうして有吾が温めてくれてるから、大丈夫」
僕には何の選択肢も与えずあの店でTシャツを買ったのに、自分は断固拒否するなんて、何て人だ。と思ったけれど、昨日澄香さんの友達に連れて行かれた洋服屋も美容院も、とっても洗礼されていたのを思い出したから、仕方ないか。と不満を飲み込んだ。
「じゃ、今はこれで我慢して」
僕は飲み込んだ不満を少しだけぶつけるように、澄香さんの肩を抱く腕に力を込めて、もっと強く抱き寄せた。
「髪、濡れてない?乾かさなかったの?」
僕の不満は伝わっていないようで、いつもの調子で澄香さんは細い指で僕の濡れた髪を触った。
「澄香さんを待たせてると思ったから」
「これじゃ、有吾も風邪ひいちゃうよ」
澄香さんはクスっと笑ってから、鞄の中からハンドタオルを取り出して、僕の濡れた髪を拭き出した。
「僕は大丈夫。この季節は家でもドライヤーなんて使わない自然乾燥だから、慣れてるし」
「そうなの?だからいつもボサボサの髪をしてたんだ」
「ボサボサだった?」
「うん、いつもはね。でも今日、学食に座ってる有吾はちゃんと髪もセットしてるから、別人みたいだった。着てる服もいつもと違うし、私の友達が選んだって知って、悔しかった」
「悔しかった?だから、カフェラテをかけたのかよ」
「…まぁ、手元が狂う心的要因の一つかな」
「何だよ。それ」
勝手すぎる理由に呆れた。澄香さんとはまだ1週間だけの付き合いだけど、毎日会っているせいか行動パターンを理解しつつあると思っていたが、まだまだ謎が多い。
「お待たせいたしました。ごゆっくりどうぞ」
僕たちが身を寄せ合って座ってる前に、マスターが湯気が立つカフェオレと、カランと氷が鳴るアイスコーヒーを置いた。
僕は直ぐに澄香さんから腕を離すと、向かいの席に移動した。
澄香さんはテーブルに置かれたカフェオレのカップを両手で包んで、冷たい指先を温める。体温を澄香さんに分け与えたからか、銭湯で温まった僕の身体は、いつもの体温に戻っていて、キンキンに冷えたアイスコーヒーは冷たすぎて、一口飲んだだけで、僕の身体の熱は冷めた。
「ねぇ、午後の授業全部サボらない?」
「サボってどうするの?」
「カーディガン買うの付き合ってよ」
初めて授業をサボって入った銭湯が気持ちよかった事を思い出し、今日くらいはいつもしないことをしてもいかもしれない、と思い「いいよ」と同意した。
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