7 僕たちはまだ偽りの関係

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7 僕たちはまだ偽りの関係

 日曜日の水族館なんて、本当のデートみたいだ。  午後の日差しが痛いくらいに眩しい今日は、お出かけ日和で。小さな子供を連れた家族や、手を繋いだカップルが幸せそうな笑顔で僕の前を何組も通りすぎ、水族館へと消えて行く。  最寄り駅は一緒なのに、水族館の前を待ち合わせ場所に指定したのは、どうしてなんだろう?と、小さな疑問を抱いていると、僕の目の前に黄色のワンピースに白いカーディガンを着た澄香さんが「有吾、待った?」と言って現れた。  「少しだけ待ったけど。僕が早く着きすぎただけだから」  「そう、良かった。じゃ、行こう。あっ、その前に、記念写真」  澄香さんは何だか機嫌が良くて、スマホのカメラを起動させながら、水族館の入り口をバックに僕の腕を引いて、画角に二人が収まるように近づくと「ハイ、チーズ」と言って写真を撮った。  「有吾は水族館、最近来た?」  「嫌。子供の頃に来て以来」  「私は、去年の夏にここじゃ無い水族館に行った以来。ここは初めてだから、楽しみ。何か、イルカのショーもあるんだって、それも絶対に見たい!」  無邪気にはしゃぐ澄香さんは大学にいる時とも、この間授業をサボった時とも違って、何だが小さな子供のように見えた。  僕は周りのカップル達を参考に、冷たい澄香さんの手を取り繋いだ。澄香さんは初めて手を繋いだみたいに驚いて、歩を止めて僕を見たけど、すぐに笑顔になって、繋いだ手の写真を撮った。いつもは冷たくてヒヤッとする澄香さんの手は、慣れてしまったのか、その冷たさが気持ちよくて、僕はいつもよりしっかりと手を握った。  水の中にいるような青の世界に、澄香さんの黄色いワンピースと白いカーディガンは良く映えて、時々僕の手をほどいて水槽に近づき人の波に紛れても、直ぐに見つけて手を繋げた。  お互いに少ない魚の知識を披露しつつ、説明パネルに書かれている情報を新たに得て、二人で感心したり。イルカのショーでは、水がかかるエリアだと知らずに座ってしまい、僕はTシャツの左側を澄香さんはワンピースの裾が濡れてしまって、驚いた直ぐ後にお互いを見て大笑いしたり。大きなタカアシガニを見た僕が「美味しいのかな」と呟いたら澄香さんは「あんなのどんな鍋で湯がくんだろう」と同じような事を呟いたり。まるで仲のいい友達か、仲のいい恋人のように大半は笑いながら、ほんの少し真面目な顔で水族館を楽しんだ。 水族館を出ると空は柔らかな夕焼けに染まっていて、楽しい時間はもう終わると教えられているようで、何だか少し寂しくなった。  「ねぇ、今日は夜も何も無いんだよね?」  手を繋ぎながら夕焼けを見ていた澄香さんは、繋いでいる手にギュッと力を込めて聞いた。  「うん。何もない」  「じゃあ、有吾の家で、一緒にビーフシチューを作らない?」  「ビーフシチュー?」  「そう。有吾、いつもアルバイトで作ってるでしょ?」  「アルバイトで作ってる?僕が?」  「そう。レストランのアルバイトで」  「あぁ、あれは、僕が作ってるというより、盛り付けてるって感じ。オーナが作った、ビーフシチューを盛り付けて出すって感じだから、作ったことなんて無いよ」  「そうなの?私、全部有吾が調理してるんだと思ってた」  「澄香さん、僕のアルバイト先に食べに来た事があるんだね?」  「…うん、ある。ほら、私の、アルバイト先も近いでしょ。だから時々」  「そうなんだ。僕も澄香さんのアルバイト先のパン。好きで、時々買うよ」  「…うん、知ってる。じゃあ、ビーフシチューは無理か」  澄香さんは残念そうにため息をついたけど、そのため息を蹴散らすように提案した。  「上手くできるか分からないけど、一緒に作ってみようよ。レシピを見ながら作って、市販のルーを使えば最低限の味は保証できるんじゃないかな?」  「ホント!いいの?」  クリスマスのプレゼントをもらったような顔をして喜ぶ澄香さんの笑顔が見られて、僕も嬉しくなった。  「じゃあ、スーパーに買い物に行かなくちゃ、僕の冷蔵庫に牛肉なんて入って無いから」  「じゃあ、バケットは私のアルバイト先で買おう。カリカリのモチモチで最高に美味しいの」  「いいね。僕もあそこのカスクートは大好きだ」  「うん」  僕たちは、いつも行くスーパーでビーフシチューの材料を買って、澄香さんのアルバイト先でバケットを買って、僕のアパートでスマホに表示されているレシピと格闘しながらビーフシチューを作った。  澄香さんは意外と包丁使いが上手くて、僕はレシピ通りの軽量にこだわって、ローリエの葉っぱの効果を二人とも疑ったけれど、煮込み始めていい香りがし始めると、お互いに顔を見合わせて頷いた。  ビーフシチューが煮えるまで小一時間ほどかかるらしく、お腹が空いた僕たちは、バケットの端を小さく切って、残った赤ワインをコップに入れて、乾杯をした。  安いワインは思ったよりも甘くて飲みやすくて、僕はいっきにグラスを空けると、二杯目を注いだ。  「有吾って、お酒好きなの?」  ワインよりもバケットをつまんでいる澄香さんは、意外そうな顔をして尋ねる。  「好きかどうかは、まだ分からない。お酒を飲む機会も少ないしね。でも、飲めないことも無いし、この赤ワインは思ってたよりも渋みが無くて、飲みやすい」  「そうなんだ。じゃあ、今度は居酒屋デートに行こうか?」  「いいね。澄香さんと飲むのは楽しそうだ」  「楽しそう?」  「うん。今日の水族館はとっても楽しかった。今も、一緒に料理できて楽しいよ。僕たち、意外と気が合うのかもしれないね」  ワインはまだ少ししか飲んでいないはずなのに、フワフワと体が軽くなってきて、思った事が頭に浮かぶよりも早く口から出て行く。でも、それが心地良くて、グラスに入っているワインをまた飲み干した。  「澄香さんは、ワインよりもパンの方が好きなの?」  小さく切ったバケットの端は、もう残りが二つになっていた。  「このバケットの端が美味しんだよね。このカリカリの触感には中毒性があると思うの」  澄香さんがまたバケットにをつまんだから、僕はその手を掴んで澄香さんの指につままれているバケットをそのまま口に入れて奪った。僕の唇に触れた澄香さんの指は、やっぱり冷たくて気持ちよかった。  「うん。確かに、このカリカリには中毒性があるかもしれない」  「で、でしょっ。仕方ないな、最後の一つも有吾にあげるからしっかり味わって」  澄香さんが最後の一切れを強引に僕の口に入れたから、思わず手を掴んで少しだけ抵抗したけど、カリカリとした触感と香ばし小麦の香りが口中に広がったから、思わず目を閉じて、バケットを堪能した。  「うん、美味しい。こうして目をつむって食べると、味に集中出来てより美味しく感じるよ」  「そう、良かった。有吾の手、いつもより熱いけど、もう酔っぱらってるの?」  澄香さんの手を掴んだままだった事に気が付いて、二人の手を見た。  確かに澄香さんの手は冷たくて気持ちいい。でも僕の手がいつもより熱いのかどうかは分からない。分かるのは、確かに酔いが回って来ていると言う事だけ。そんなにお酒は飲まないけれど、ワイン二杯で酔っぱらうほど弱くも無い。どうしてこんなに酔っぱらってしまったのか少し考えたらすぐに答えが出た。  「寝て無いから、酔いが回るのが早いのかも知れない」  「寝て無いの?どうして?」  「レポートを書いてたんだ。思ったより時間がかかって、寝る時間が無くなった」  「それって、今日書く予定だったレポート?」  「そう。ちょうど本を読み終わったから、その勢いで書いてしまおうと思って」  「映画を見た日に読んでた本?」  「そう」  「有吾、私に付き合うために無理したんだね」  「無理というか、澄香さんに付き合うのなら、今までの僕のペースじゃダメなんだ。だから今は新たなペースを模索中」  「そっか、ごめんね。無理させて。ビーフシチューは私が責任をもって仕上げるから、出来るまで寝てていいよ」  「そんな事言われても、出来上がりが心配で寝られないよ」  「大丈夫。後は魔法のルーを入れるだけだから、私でもできる。それに、有吾の手、小さな子供が眠たい時みたいに温かいから、目をつむっただけで寝られるんじゃない?」  「そうかな?じゃぁ、お言葉に甘えて、目をつむってみようかな」  ベッドを背もたれにしてカーペットに座ったまま目を閉じると、換気扇のまわる音とビーフシチューを煮込む音と外を通る車の音が聞こえるだけで。その音に耳を清ましていると、眠ってしまった。  唇に何かが触れた気がして、目が覚めた。薄っすらと開けた視界には、澄香さんがいて、目を覚ました僕に驚いて視界から消えた。  「ビーフシチューできた。有吾、疲れてるみたいだから、今日は帰るね。お休みなさい」  寝起きの僕は、澄香さんの俊敏な動きに対応できず、目を開ける事しか出来ないまま、澄香さんを見送った。  唇に触れた感触には覚えがあった。いつか似たような状況で、あの時も、誰かこの部屋にいて、僕の唇に何かが触れて目が覚めたんだけど、瞼が開かなくて、部屋のドアが閉まる音で、瞼が開いたんだ。そうだ、あれは、初めて澄香さんと出会った日の事だった。そして、僕の唇に触れたのは冷たくは無くて、柔らかくて温かかった。あれは夢じゃ無くて、もしかして、澄香さんの…。  ビーフシチューを作った日を最後に、澄香さんは「レポートとアルバイトで忙しいからしばらく会えません。学食も行けないから、私を待たないでください」とSNSにメッセージが送られて来たきり、こちらの問いかけには既読スルーをしたまま僕の日常から消えた。   
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