8 私の心を奪った人

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8 私の心を奪った人

 こんなに自分の衝動が抑えられないなんて、思いもしなかった。  私の事なんて視界に入っていなくて。視界に入ったところで、記憶に残らなくて。いつも気が付くのは私の方で。今まで好きになった人とは全然タイプが違って。私の周りにいないタイプだから気になるだけかと思っていたのだけど、それは自分に言い聞かせていただけで。あの夜、強引に巻き込んでしまったけど、あんな事でも無ければ、こんな風に隣で笑って写真に写るなんて無かった。  自慢じゃ無いけど、男の人にはモテる。信号待ちをしているだけで何人もの人に声を掛けられるし、アルバイト先のパン屋には、焼きたての時間ではなく、私が入っている時間を目当てにやって来るお客さんも多い。だから恋人も、好きだと言ってくる人の中から、好きになれそうな人を選んで付き合って来たけれど、私が本当に好きになれる人はほとんどいなかった。  2年の冬。スマホを失くして大騒ぎしながら友達のスマホから自分のスマホに何度も電話をかけると男の人が出て、これをきっかけに面倒な事になるのかと覚悟しながら学食まで取りに行くと、びっくりするくらい地味で印象の薄い有吾が私のスマホを持って待っていた。私が声を掛けると、あっさりと渡して名前も聞かずに行ってしまった。その姿が、格好よくないのに、格好よく見えて。大学で有吾を見かけると、学部や名前を周りに聞いたりして、情報を得た。  私がアルバイトする駅前のパン屋は、夜遅くまで営業していて、有吾は時々パンを買いに来た。私がレジの対応をしても、あの時のスマホの落とし主だとは気づかずに、パンを受け取るだけだった。  朝や帰りに駅や電車で見かけても、有吾に私は見えて無くて。それが何だか悔しくて、帰りの電車が一緒になった時、私の事に気づいて欲しくて、有吾の後ろを歩いていくと、私のアルバイト先のパン屋の近くにある、大衆食堂のようなレストランの裏口に有吾が入って行った。  そのレストランに客として入ると、昔レトロで懐かしいメニューが並ぶ中、おすすめメニューとして挙がっていたビーフシチューを頼んだ。温かくて、濃厚で、お肉も野菜も食べ応えがあるけど、柔らかくて、優しくて、美味しくて、幸せになった。もう少しで食べ終える頃、有吾の事を思い出して店内を観察したけれど、有吾はどこにもいなかった。有吾が出てくるまでゆっくりと食べればいいかと思ったけれど、そこそこ広い店内は満席で、長居するのは気が引けたので、席を立った。お会計のレジの奥に少しだけ見えた厨房の中で有吾が、キレイに盛り付けられてハンバーグをホールスタッフに渡しているのが見えた。  それからは時々、パン屋のアルバイトが終わった後、有吾のアルバイトする店でご飯を食べた。オムライスも、ハンバーグもピラフも美味しかったけど、私はやっぱり、ビーフシチューが一番好きだった。お会計の時は必ず厨房を見て、有吾がいないか確かめた。その結果、有吾は金曜の夜には大体入っている事を知った。そして、有吾が道を挟んだ向かいのアパートに住んでいる事を知ってしまうと、出会いから住んでいるところまで色々こじつけて、有吾に運命を感じてしまった。  でも、この時私には恋人がいて、別れ話をしていたけれど、なかなか受け入れてもらえなかった。だから、有吾に対しての思いは私の中で密かに楽しんでいれば良かった。ハズなのに。  あの夜。恋人と別れたと知ったアルバイト先のお客さんが、しつこくて。逃げるように入った有吾のアバイト先のレストランで、閉店時間までゆっくり食事をしてから店を出たのに、外で待っていた。このまま家までついてこられるのが怖くて、相手を刺激しないように断ったのだが、なかなか納得してもらえず、困っているところに、有吾が裏口から出てきたので、思わず体が動いて口走っていた「私、彼と付き合ってるんです」と。手を繋ぎながら逃げ切った時、私は有吾がどうしようもなく好きなんだと分かって。強引でわがままだって思いながら、有吾の記憶に刻み付けるような出来事を作りたかった。月曜日、大学で私を見たら、思わず視線が追ってしまうような。思わず声を掛けてしまうような。そんな記憶を。  一晩一緒の部屋で過ごしても、指一本も触れてこない上に、スヤスヤと床に丸まって寝てしまう有吾の寝顔は、純粋無垢な天使のようで、この天使を私だけのものにしたいと。願ってしまった。  月曜日の朝、駅で有吾を見かけて何度も名前を呼んだけど、全然気づいてもらえず、週末の夜に刻み込んだと思った私の記憶は、私だけにしか刻まれて無い事を知り、腹が立った。だから、どうしても私の存在を教えたくて、普段は女性専用車両にしか乗らないのに、有吾の後を追いかけて、同じ車両に乗り込んだ。強引に有吾に近づいて、わがままを言ったら、この間の夜のように、あっさりと受け入れて、私を人ごみから守ってくれた。有吾の手が私の背中に回されて、有吾の胸の中に抱かれてしまうと、ドキドキして、体中の熱が顔に集まったのが自分でも分かるくらい、顔が真っ赤になってしまった。  イケメンでも無いし、洋服のセンスがいいとか、才能が溢れて魅力的という訳でも無いのに、なぜか有吾に魅かれてしまう自分が分からなくて。でも、こうして、抱きしめられるのは、有吾がいい。  電車から降りて、有吾が私の手を離した時。イヤだと思った。私が手を繋ぎたいのは、、有吾だけと思った。だから、有吾の優しさにつけ込んで、彼氏のフリをしてもらった。あんな下心丸出しの要求も、有吾はボランティアみたいに引き受けてくれた。でも、私にだって自信はあった。今は私の事が好きじゃ無いけど、一緒にいるうちにだんだん好きになってくれると思っていた。だって、漫画やドラマでは、気のない二人が一緒にいるうちに恋が芽生える事になっている。私は、そんな王道的な展開を望んで有吾に近づいた。  なのに、好きになるのは、私ばっかりで。ドキドキするのも私だけで。友達が有吾を勝手に変身させた時は、悔しくて、腹が立って、無かった事にしたくなった。だから手に持っていたカフェラテをかけてしまった。有吾は冴えないままで十分素敵だから。見た目だけが変わって満足するような、今まで私の周りにいた男たちのようにはなって欲しくなかった。  一緒に行った買い物も映画も水族館も、全部楽しくていつもドキドキした。でも、一緒にいて楽しいのは私だけだった。  有吾は、勉強が好きで、自分の夢に真っすぐで、地味な日常の中に楽しみを見つける人で。私に付き合って、格好良くなったり、デートを楽しみにしたり、勉強の時間を潰しちゃいけない人だ。  私の事を好きになって欲しいと願っていたけど、私の為に変わって欲しくは無かった。だから、写真の中で笑う有吾だけを私のものにして、現実を生きる有吾を解放することにした。  何時か有吾の事が過去になる日まで、私はひっそりと有吾を思うと決めた。
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