9 私のわがまま

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9 私のわがまま

 会おうと思わなければ、特別避けなくてもわ会わないものだと知ったのは、ビーフシチューを一緒に作った日から2週間が経った頃だった。  駅でも、大学でも、アルバイトでも。有吾の生活と私の生活は元々交差することなんて無かった。私が無理やり有吾の生活に入り込んだだけだった。  「バケットがおひとつ、カスクートがおひとつ、クリームパンがおひとつで、920円になります」  「僕はもう、澄香さんには必要無くなったのかな?」  記憶の中だけで何度も再生されていた有吾の声が聞こえて、初めてお客さんの顔を見た。  「…有吾」  「そろそろ、ちゃんと話をしないといけないと思うんだけど」  「い、忙しの、私。アルバイトが終わったら、レポートを」  「今、レポートを出さなければならない授業は無いって、澄香さんの友達に聞いた」  「レポートは終わったんだけど、ゼミの調べものが沢山あって…」  「30分でいいから、時間を作って欲しんだけど」  「…分かった、考えて連絡するから」  「待ってる」  2週間ぶりに見た有吾は相変わらず、洗いざらしのボサボサの髪で、余計な脂肪も筋肉もついていない細い身体で、ただ着心地だけで選んだ服だったけど、素敵だった。でも、有吾の方から会いに来てくれたのは初めてで、それが私たちの関係をハッキリ終わらせるために来たと知っても、嬉しかった。  もう有吾から離れると決めたのに。もう近づかないと決めたのに。終わりにすると伝えられないでいるのは、好きだから。  やっぱり、全てを断ち切るなんて、無理だよ。  会えない間、ずっと有吾の事を考えてしまって、思いが風船のように膨らむばかりで、過去になんてならない。  連絡は取りたいけど、連絡してしまったら本当に終わってしまう。もう、有吾の中ではとっくに終わっているのかもしれないけど、ハッキリ言葉で言われたくない。私の最後のわがままがもうすぐ終わってしまう予感が、嫌になるくらい体中を駆け巡った。  有吾に会うために一本早い電車に乗っていたけど、いつも通りの時間に戻したら、同じ速度で進むはずの電車も遅く感じてしまうのは、私に流れている時間が止まってしまったからなのかな?有吾と出会ってからの時間は毎日あっと言う間に過ぎて、有吾と過ごす時間は止まって欲しくても倍速で進んでしまって、有吾を好きになってしまってからの私の体感時間はぐちゃぐちゃになった。  満員電車に吐き出されて、ハイヒールを履いた重い足を何とか動かしながら大学の最寄駅の改札を抜けると、朝の明るい光に映し出される活気のある周りの喧騒がCGのように思えた。それは、私が重い空気を纏っているからだと自覚している。SNSに上げられる病み投稿をあんなにバカにしていたのに、今の私は病みを体中で醸し出しているイタイ女で。まだSNSに上げて不特定多数の人に構ってもらう方がよっぽどマシだ。  あんなに騒がしい友達も、最近では声もかけてこない。それぐらい今の私はヤバいのかもしれない。  「おはよう、澄香さん」   珍しく声を掛けてきた人がいると思ったら、有吾だった。  「ど、どうして、この時間に居るの?」  「澄香さんを待ってた」  「あ、えっと、私、急がなきゃ、遅刻しちゃう」  「確かに、ゆっくり話をする時間は無いけど、そのハイヒールでゆっくり歩いても十分間に合うよ」  有吾の言う事は正解で。私には急ぐ理由なんて何も無い。ただ、有吾と話をする時間を作りたくないだけ。だから私は、有吾の言葉を聞かずにわざとヒールを鳴らしながら急いで歩いた。  「ちょっと、待って。相変わらずハイヒールなのに歩くの早いね。連絡待ってたけど、全然くれないから待ち伏せた」  「あぁ。時間が出来たら連絡するって言ってたヤツね。ごめん、まだ忙しくて…」  「だったら、今、歩きながら話そう。SNSに上げるって言ってたデート写真も水族館の水槽が写ってる物しか上げて無いし、澄香さんが一人で居てもいいよって来る男の人はほとんどいないようだし、何だか僕を避けているようだから、もう僕の役目は終わっていいよね」  「…有吾は、それでいいの?」  「いいも何も、澄香さんが決める事だろ?僕が決めてもいいなら、とっくに…」  「きゃっ!」  有吾の言葉を遮るように上げた悲鳴は、履きなれているハイヒールなのに躓いてしまったから。有吾の温かい手が私の腕を咄嗟に掴んでくれたけど、一足早くコケてしまって、有吾の優しさを台無しにした。  「痛ったー」  「大丈夫?じゃなさそうだね」  痛みに顔をゆがめる私を上から見下ろしている有吾は、こける時に咄嗟について擦りむいた右手の掌のにじむ血を見て言った。  「膝も擦りむいた。痛い」  「ハイヒールで競歩並みに歩くからだよ。幸い大学は目の前だから、医務室で手当てしてもらおう」  有吾は私の腕を引っ張って立たせてくれたけど、足首も痛くてフラついた。  「歩け、そうもないか。仕方ないな」  私を支えていた腕を離したと思ったら、素早い動きで私の前に周り背を向けた。  「僕、体力には自信無いから、ちゃんと掴まっててよ」  「えっ?おんぶ?」  「そう。もしかして、タンカとか救急車とか望んでる?」  「イヤイヤ、それは大げさでしょ。でもこういう時は、お姫様抱っこなんじゃ無いの?」  「はぁ?そんなの僕には無理だよ。おんぶが嫌なら、お姫様抱っこできそうな体格の人を探そうか?」  「イヤイヤイヤ。それは絶対にイヤ。有吾におんぶしてもらう」  「じゃあ、我慢しておぶられて」  有吾は再び背を向けて、私が体を預けやすいように身を屈めてくれた。  「お願いします」  有吾の背中は背骨がくっきりと分かるくらい瘦せていて、腕を回した首にはとがった喉仏があって、でも私を運ぶ足取りは意外とちゃんとしていて安心した。  「初めて手を繋いで大学に来た時よりも、注目度がすごくて恥ずかしい」  有吾の声がいつもより近くに聞こえて、ドキドキする。  「確かに、この状況はかなり恥ずかしい。罰ゲームみたいだね」  「罰ゲームか。そんな事言ったら、澄香さんと出会った時から僕には毎日が罰ゲームみたいだったよ」  「…罰ゲームか。そうだよね。有吾にとって、私なんて邪魔でしかなかったよね」  こみ上げてくる涙を必死に堪える為に、有吾の首に回した腕に力を込めて、顔を隠すように、手触りの悪い有吾の髪に頬をつけた。  「ちょっと苦しいよ。首、絞めすぎ。罰ゲームってそのまんまの意味じゃないから、怒らないでよ」  「じゃあ、どんな意味なの?」  「普段の生活じゃ起こらない事が起って、普段の僕が行かない場所に行って、普段の生活じゃ知る事のなかった楽しさを知った。澄香さんは、僕に新しい世界を教えてくれた、素敵な人だよ」  「…素敵な人。私が?」  「そう。まぁ、容姿は自覚してる通り奇麗だけど、性格は少々強引過ぎてどうかと思うところも多々あって、でも一緒にいるのは意外と楽しい」  「迷惑なだけじゃ無かったの?」  「まぁ、最初は迷惑だったけど、楽しい事も多かった」  「有吾の日常を壊して、デートに誘ったり、勉強の邪魔されても、迷惑じゃ無かったの?」  「いや、それは迷惑だけど、水族館は楽しかった。また行きたい」  「私がいると、有吾が変わっちゃうのは嫌じゃないの?」  「今の自分に満足しているわけじゃないから、変わる事は嫌じゃない」  泣きそうなくらい聞きたくなかった有吾の言葉は、ありえないと思っていた希望に変わって、私の中を高速で駆け回り、ドキドキと鳴っていた心臓をドクドクと激しく動かす。  「僕、もう彼氏役は終わりにしたんだ。澄香さんとは偽りの関係のままでいたくない。誰に聞かれても、嘘偽りない関係でいたいんだ。それは澄香さんにとって、望まない事かもしれないけど」  もう、希望以外私の中には湧いてこない。  奇跡って、起こるんだ。  私は、喜びで震える声で伝えた。  「分かった。彼氏役は、もう終わり」  「ありがとう」  いつの間にか医務室に着いてしまって、有吾はあっさり私を校医に引き渡すと「お大事に、一応、澄香さんの友達にここに居る事、伝えておくよ」と言って消えた。  これから、甘い告白をしてもらえると思っていた私は消化不良のまま校医の手当を受けながら、現実へと戻った。  有吾から知らせを受けた友達が、相変わらす騒がしく私の怪我を笑いながら、ペタンコのサンダルと私のハイヒールを交換して、講義室に連れて行ってくれた。  「澄香が病んでる間、有吾の相手するの大変だったんだから。これからは澄香がちゃんと相手してよね」  「ちょっと待って。何であんた達が有吾って、名前で呼んでるの?」  「だって、有吾がそう呼んでいいって」  「有吾が?」  「そう。もうね、私たちと有吾、友達だから」  「と、友達…」  何故だかイライラして、モヤモヤして、気が付いたら有吾に「今夜会いに行きます」と連絡していた。          
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