ヒト科の落日

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 月もいよいよ真上に上ろうかという時刻。一人の男が、あるバーを訪れた。  カウンターはガランとしており、誰の姿もない。代わりに、空き座席を示した電子端末が煌々と青っぽい光を放っている。男は迷いなく入り口から最も離れた個室を選択すると、そこへと向かった。  部屋にはゆったりとした一人がけのソファと木製のテーブルが置かれてあり、バーと呼ぶにはあまりにも簡素である。しかし男は何の不平も言わずにソファに腰掛け、慣れた手つきでテーブルに備えつけられたスイッチを押した。 「ようこそいらっしゃいました、山尾様」  テーブルが僅かに振動し、そこから生えるように半透明の女性の上体が現れた。人工的な水色の髪は腰まで伸びており、いささか大きすぎる緑色の目が男に向かって開かれる。一方男は生気のない目で、電子情報のみで構成された美女を見つめ返した。 「僕の名前を覚えてくれていたのか」 「全てのお客様の顔パターンは記録されています」 「そうか。そうだったね」 「何を飲まれますか? 前回はハイボールをご注文されましたが」 「今日はアップルジュースで頼む。あまり酒を飲みたい気分ではないんだ」 「かしこまりました」  まもなく、機械の軋む音がして男の右横の壁が上に引き上がった。鮮やかな橙色の飲み物が用意されている。男は受け取り、女性に向けてグラスを掲げた。 「乾杯」 「ええ、お召し上がりください」  口をつける。決して想像した以上ではない風味が、男の喉を潤した。 「……もうみんな、生身の人と話さなくなってしまった」  やがて男は、ぽつりと呟いた。 「全てAIが相手になってくれるんだ。友人、恋人、カウンセリング、治療のための診断……。今では、上司も部下も間にAIが挟まる始末だ。無論、それでスムーズに回ってるんだけど」 「合理化の結果でございますね」 「お陰で人々は、人間関係における煩わしさから解放されている。本来ならそこから生じていただろう犯罪も、すっかり消えてしまった。もっとも、その取り調べだって今はAIが肩代わりしているが」 「AIの先にいるのは生身の人でございますよ。まるっきりAI任せというわけではありません」 「その生身の人も判断を何に頼るかといえば、AIの導き出した答えだ。これじゃどちらが偉いかわかりゃしない」 「偉さというのは相対的な概念ではございますが、そもそもAIとは人の歴史と知識の上に成り立つものです。突き詰めれば、必ず人で終わるものですよ」 「君の返答だって、僕が満足いくものを選んでいるにすぎないじゃないか」  男は、再びジュースを一口飲む。形の良い唇が、ジュースの一滴もこぼさぬようすぼんだ。 「……実は今日、失恋をしてね」 「まあ」  AIの女は、口元に真っ白な手をあてた。その外見は、指先のきらびやかなネイルに至るまで、男の好みのままに選択されたものだった。 「笑わないでくれるかい? 僕は随分と長くあの人に恋をしていた。そればかりか、好かれているとさえ思っていたんだ。なぜって、毎日僕の目を見て笑って挨拶をしてくれるからね。一度ならず、二人きりで食事に行ったこともある」 「そうなのですね」 「だから、生まれて初めて外見を取っ払って触れ合いたいと思ったんだ。その人がどんな姿でも、どんな声でも、どんな言葉を使っても、受け入れられるからと」  そこまで言うと、男はおもむろに自分の頭頂部を両手で掴んだ。つるりとバナナの皮を剥くかのようにして皮膚の下から現れたのは、思い詰めた表情をした浅黒い顔の女。 「……」  女は、何か言おうと口を開いた。だが、出てきたのは掠れたような音ばかりで、女は諦めてうつむいた。 「……ほら、とっくに何も言えなくなっているんだ。本物の人間は」  若い男のカバーを装着し直した女は、うつむいてそう言った。実際に彼女が口にしていたのは、もっと不適切で聞くも耐えない言葉だったのかもしれない。 「それでも、本当の気持ちだった。この色のない唇でないと真実の心は伝えられない。そう無邪気にそう思っていたから。醜い体を曝け出しても、恋を打ち明けようと勇気を出したんだ」 「はい」 「けれど、その人は三ヶ月前に死んでいた」  グラスの中では、男のエメラルドグリーンの瞳を無数に映した多角形の氷が揺らめいている。 「ずっとAIが代替していたのだと、その人の“カバー”が教えてくれたんだ。仕事にしろ人間関係にしろ、突然いなくなってしまったら困るからね。だから生前の意思に従って、AIはその人になりきっていた。……なのに僕は、気づかなかった。何一つ気づけなかったんだ」  バーのAIは沈黙を保っていた。膨大なデータをもとに、こういった状況で最も望まれる行動を学習していたからである。それを重々承知の男は、誰にでも愛されるような心地よい笑顔をAIに向けた。 「僕の中身の女性は、こどもを生む選択をしない。あの人以外のために、外側を取り払ってまで人と繋がろうとは思わないんだよ。だけど、君も知ってのとおりこんなことも今更珍しくない。多様性が極まった今、社会には選択を許された人がどんどん増えている」 「ええ」 「だからそう遠くない未来、最後の人類が死ぬ日がくるのだろうね」  静かに、けれどどこか愉快そうに男は言った。 「想像してご覧よ。人のふりをしたAIに囲まれたまま、AIを纏って死ぬその人を。きっとその人も自分が人類最後であることを知らないで、AIに自分のふりをし続けるよう言い残すんだ」  一滴残らずアップルジュースを飲み干した男は、白すぎる歯を見せて笑った。 「音もなき、ヒト科の落日だ。僕は結構幸福な結末だと思うのだけど、君はどう思う?」  しかし美しいAIは、やはりただ男が望む答えを口にするのみだったのである。
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