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インターホンがあるというのにドアをノックするひとがいる黄昏時に、ひとりで部屋にいるというのは心細いものだ。ドアスコープはあんこうのぬいぐるみ型マグネットで隠してある。ピンク色のあんこうは白と木目でまとめた玄関で浮いている。
警察に連絡すべきか、とドアを見つめていると、あんこうが落ちた。白のタイルシートで明るくしている玄関にあんこうマグネットが落ちると、途端に薄汚れてダサくてどうしようもない思い出の品だということに気付かされる。つまみ上げて、キッチンの蓋付きゴミ箱へと捨てた。ゴミ箱は引っ越して真っ先にKEYUCAで揃えたものだ。同じ箱が並んでいてわかりにくいと元夫が言うので、蓋にゴミの種類と収集曜日のテプラを貼っていたが、彼が出ていってすぐに剥がした。
ノックの音は続いている。
シューズボックスからサンダルを出す。そのときにおそろいの、サイズの大きな方のサンダルを間違えて先に出してしまった。いやな気分が顔を出そうとするのを無視して、自分のサイズのサンダルを突っかけてドアスコープを覗くと、おかしな女性がいた。
おとぎ話に出てきそうな格好をした中年女性だ。顔立ちから、西洋人だと思った。木綿のワンピースにエプロン、頭から肩までを覆うストール、手には籠を下げている。寒そうだ。何らかの団体からはぐれ、言葉も分からず彷徨っていたのかもしれない。事情だけ聞き、行政に繋ごうと思った。
ドアを開けて、驚いた。彼女は裸足であった。急いで玄関に引き入れると手振りで彼女をその場に押し止める。グレーのマイクロファイバー布巾の新しいものを出し、バスルームに行って白のバケツにお湯をためる。バケツを下げてもどったわたしに、彼女は流暢な日本語で礼を言った。足を拭く動作だけで、凍えきっているのがわかった。
結局、シャワーも着替えも貸して、クッションを勧めルイボスティーまで出した。ひと心地ついたという顔をした彼女の髪はブロンドだった。目は鳶色だった。体が大きいので男物のネル素材のパジャマを貸していた。捨てようと思っていたパジャマだが、彼女が着てくつろいでいると通販カタログの写真みたいに映える。
「どうして裸足だったの? 家はどこ? なんでうちにきたの?」
矢継ぎ早に訊ねると、彼女は怯むどころか待ってましたとばかりに語りだした。自信に満ちていて、ドアスコープ越しに見たときの保護される対象っぽさは消えていた。
彼女は『マッチ売りの少女』の母親だが、物語をややこしくしてしまうために省かれてしまったのだという。
マッチ売りの少女は、父親にマッチを売るまで帰るなと言いつけられ、寒空の下マッチの火の中にやさしかった亡き祖母の幻覚を見ながら天に召された。少女は母親の大きな靴を履いていた。なぜ母親の靴を履いていたかというと、そのときにもう母親は死んでいたからだという。
マッチ売りの少女にとってのやさしい祖母は、母親にとってはいじわるな姑だった。産後の回復の遅い彼女をののしり碌に看病もせず食事も与えなかった。彼女は産後靴を履くことなく死んだ。
というのは悲しい裏話だが、マッチ売りの少女の悲劇にはノイズとなるらしい。
なぜ来たのか、という問いには「ここにはよけいなものが必要だから」と答えがあった。
「よけいなものなんていらない」
「わたしが履くのによさそうなサンダルもあった。わたしは足が大きいからちょうどだわ」
そのとき、またドアを叩く音がした。彼女と顔を見合わせて、一緒にドアスコープを覗きに行く。たしかにサンダルは彼女の足にぴったりだった。
ドアの外には青年がいた。またおとぎ話の格好をしている。どういうことだと考えている間に、マッチ売りの少女の母親は勝手にドアを開けてしまった。
青年は、『おおきなカブ』のお話から省かれてきたという。彼はちょうど兵役に行っていてカブを引けなかったのだが、それもまたおとぎ話のノイズなのであった。
青年はその話を、マッチ売りの少女の母親が持ってきた硬くてすっぱいパンを齧りながらした。これは黒パンというものだったかしら、と思いながら、元夫が置いていった赤ワインを出した。ひとりでは手に余っていたワインがなくなる頃、またドアをノックする音が聞こえた。
空瓶をゴミ箱に入れたわたしは、躊躇なくドアに向かう。住人たちがゴミの分別を覚えるまで、またテプラを貼らなくてはと思いながら。
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