殿の恋煩い

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殿の恋煩い

夜半。 道を行きかう人もいない… 千谷の飯屋の裏戸を、 ほとほとと叩くものがいた。 「お待ちください。 申し訳ありませんが、 今日はもう終いでございます。」 「千谷。私だ。宇山だ。 御微行(しのび)じゃ。」 御微行?この時刻に、お殿様? 千谷は慌てて戸を開けた。 「お殿様、何事でございますか…?」 一之丞の顔が… 憔悴しているのが見て取れた。 「千谷。済まぬ。 どうしたらよいか、わからぬのじゃ…。」 「水を持ってまいります。 まずは、落ち着かれませ。」 「酒はないか。酒が欲しい…」 何故か分からぬが、 お殿様、相当荒れていられる… いったい、どうされたのだ… 「申し訳ありません。 酒は置いておりません。」 本当は、あるのだが、 今は飲ませないほうが良さそうだ。 「何もする気が起きぬ… 何も食べたくない… 側女など… 要らぬ…」 「宇山様。 殿は、どうなされたんです?」 小声で千谷は尋ねた。 「私もよくは分からないのだ。 夜半に急に呼ばれて、 しのびで千谷の店に行きたいと仰せられて…。 女中頭の話だと、 ここ数日胡蝶が臥せっておるらしい。 そこに持ってきて、 いつまで側室も置かず、 側女も持たず一人身でいられるのだと 御重役方に攻められたらしく…。 荒れていらっしゃる…。」 「そこで何を二人でこそこそ話して居るのだ。」 「いえ、なにも…」 二人は声を合わせて答えた。 「千谷。どうしたらよい。 私は、側室など置きたくはないのだ。 籠の鳥になって、 権力争いの只中に置かれて… それが、女子の幸せであろうか…? 私は、 誰も幸せにできぬ男なのか…。 誰も幸せにできぬ。 情けない人間よ、のう…。」 一之丞は酔っているのか、 一人ごちては涙を流した…。 芙蓉も、蓮も…。 私を愛したが故、 つらい想いをしたのではないのか…? 誰も愛さぬほうが、 よいのかも… しれぬ…。 だが… 淋しいのだ… 芙蓉…蓮… どうしたら、よい? 「お殿様らしくございませぬ。 どうなされたのでございますか。 胡蝶がお気に召さぬなら、 お暇を仰せつかればよいこと。 何を躊躇っておいでなのです。」 「いや、 別に気に入らないのではない。 そうではなく、 そうではないのだ…わからん。 ここ数日、 胡蝶の顔が見えないと、 何か落ち着かないのだ。 私が見ていないと、 そそっかしいし、 幼いし、 なってないのだ…。 それだけなのに…、おかしい。 何か、変なのだ… この辺が… 苦しくて… 苦しくて… 私は、どうしたのだ?」 「お殿様。 それは、 恋煩いというものでございましょう。 芙蓉様や蓮様の時にも経験なさったでありませんか。 まだお分かりにならないのでございますか?」 「恋煩い?私が?胡蝶に? そんな…ばかな… なぜわかる? どうしてそちに分かるのだ!」 「人を恋る心、 慕う心については、 少なくとも、 お殿様よりは 分かっておるつもりでございます…」 上から目線で言われて、 一之丞はぺしゃんこに凹んだ。 「どうしたら…よい。」 「簡単なことでございます。 御寝所にお召しになればよいのでございます。 それで、か・い・け・つです。」 「いや、そのようなこと… 不憫ではないか。 あれは、まだ子どもだぞ。いかん。 それは、いかん。 あれにだけは、 手を付けぬと決めておる。」 「なぜでございます? 蓮様に操を立てていらっしゃるとか?」 「あ、いや…あわわ…」 しどろもどろになる、一之丞… 千谷は覚悟を決めて、手を着いた。 「お殿様。 もう、お覚悟を決めなされ。 殿が、 後の世に行くことはもうございませぬ。 蓮様に会うことも、 もはやないと存じます。 お殿様が他の女子を遠ざけるということは、 蓮様にも同じ事を求めるということでございますか? それが、 お殿様のお望みなのでございますか? 望様も近づけず、 一人でいよとお思いなのですか?」 一之丞は答えに詰まった。 そうなのか? そのように、 蓮をがんじがらめにしたいと 思っているのか? そうではない。 いつも笑っていて欲しいと… 願って…いるのだ… ほんとうに… 泣かないでくれ…蓮… 「千谷…宇山… すまなかったな… 城に… 戻る…」 「お殿様。お見送りいたしまする。」 「いや、宇山がおるから、大丈夫じゃ。 まいるぞ…」 二つの影が、闇を行く… その後には、 いつの間にか千谷と真山がいた。
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