いつもと違う殿

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いつもと違う殿

「胡蝶、お殿様より、 夕餉が終わったら書の練習をするゆえ、 お居間に参るようにとのお言葉じゃ。」 「はい、かしこまりました。」 「胡蝶はいいわね~、 お殿様直々に色々教えていただけて。 うらやましいわ~」 「はい、でも、 皆様もこれまでお殿様にお教えいただいてこられたのではないのですか? 私にしてくださるように、 家臣にお教えになるのがお好きなのでございましょう?」 お殿様はご教授が趣味… 胡蝶はそう思い込んでいた。 「あら、胡蝶は特別よ。 だって、 御正室様がいらっしゃったときは、 私たちがお側で親しくお話申し上げることなどできなかったもの。ね~」 「そう、 御正室様は美しくて 淑やかな方だったけれど、 お殿様の側には 決して女人を近づけないように なさっていらしたもの。 でも、 お殿様はあのようにお勉強好きな方でしょう? 御正室様は余りそちらのほうはお得意ではなかったから、 芙蓉様がお側女に上がって お話し相手になさってたのよね? 芙蓉様なら、安心だから…。」 「芙蓉様って?」 「お側女だった方。 賢い方だったけれど、 お顔立ちはそれほどお美しくはなかったわ。 足を滑らせて、 池に落ちて亡くなったのよね。」 (安心って、顔に傷がある女には、 手を出さない…って事?) 「あら~、ご存じないの? ここだけの話だけれど、 実は、芙蓉様は事故ではなくて ご自分で身を投げられたんだそうよ。 若君様だったお殿様に 毒を盛ろうとした 企みだったのだそうよ。 それに気付いた芙蓉様が、 代わりに毒をかけた干し柿を召し上がって、企みを隠すために池に身を投げたんだそうよ!」 「ええ~、そうなの~ じゃあ、 芙蓉様のご両親が、 藩内を騒がせたからということで隠居されたのは、嘘なのね。」 「ええ、芙蓉様のお父上とお殿様の弟君が企んだことのようよ。 そのことに芙蓉様が気づかれて、 若君様を助けようと お身代わりになったんですって。 でも、自分が毒で死んだら、 陰謀がばれてしまうでしょ。 だから、証拠になる干し柿を全て持ち帰って懐に入れて、 足を滑らせて落ちた事故に 見せかけたんですって。 若君様は、 事実を突き止めてしまわれて… だから、 お殿様は今でも芙蓉様の事を想われていて、いまだに側女も置かないのよ… きっと。」 「だから、 弟君は蟄居を命じられたのね。 芙蓉様のお陰で、ご実家は取り潰しにならないで、隠居で免れたのね。」 「まあ、噂だから、 どこまでほんとうなのか、 わからないけど… 大変!女中頭様だわ… 聞かれた?」 慌ててみんな口をつぐんで 食べだした…。 「これ、いつまでしゃべっておるのじゃ。 奥での噂話は厳禁じゃぞ。 口を慎むように。 食事が終わったならば、 それぞれ仕事に戻りなされ。」 「はい。申し訳ございませぬ。」 芙蓉様… どんな方だったんだろう…? お殿様はその方のことを想っていられて… 私はその方のお身代わり…? 自分のことを 少しは女人として見てくれているのかもしれない、という 淡い期待を抱いたことが 恥ずかしく思えた。 バカみたい… 何を勘違いしているのよ… 今朝、 お殿様がいつもと違うように思われたのは、 ただの思い込みだったのだと思った。 「胡蝶でございます。 遅くなりまして、申し訳ございません。」 「ん、入れ。」 一之丞はすでに何か書いていたらしく、 顔も上げずに胡蝶を招じ入れた。 静に筆を運ぶ姿は、 いつもどおりの一之丞と変わらなかった。 「失礼いたします。」 「手本はそこにある。書いてみよ。 和歌を、と思ったのだが、 この間の文の文字が余りに拙かったのでな…。」 「申し訳ございません。」 胡蝶はうなだれた。 一生懸命書いた文だったのに… お殿様にとって、 私はやっぱりただの幼い子供… 書…と聞いて 弾んでいた気持ちは ぺしゃんこになってしまった。 胡蝶は、 ことさら書が好きでも得意でもなかった。 でも、書の練習ならば… お殿様を見ることができるから、 嬉しかった。 他の勉強のときに、 ぼうっと顔を眺めることなどできはしなかったが、 書ならば、 手本を書いているときや、 胡蝶の書いたものに朱を入れているときなどは 遠慮なく見ることができる。 胡蝶は、 一之丞の筆を持つ大きい手が好きだった。 お殿様の指はとても綺麗… ちらりと顔も盗み見たり… そして、時には直接手にとって教えてくれるときもあった。 お殿様の手はとても大きくて、… 頭の上から声を掛けられると、 どきどきした。 近くに来ると、 いい香りがほんのりとして心地よかった。 亡くなったお父様の匂いに似ている…気がした。 なのに今日は… 「もう一度。」 「もう一度…」 とおっしゃるのみで、 書いたものに朱も入れてくださらず… 胡蝶は、黙々と書くしかなかった。 これじゃ、 お手さえ見られやしない… もう… お殿様の、バカ… 胡蝶は心の中で毒づいた。 でも…??? なにやら、変。 胡蝶は視線を感じた。 お殿様が、私を見てる? そんなわけが… いつも、 私の書くものを じっと見ていらっしゃるもの… 見てはいけないと思いながらも、 書き終わったとき、 恐る恐る眼を上げてみると… 目が合ってしまった… 「も、申し訳ございません。」 慌てて筆を置いて、胡蝶は平伏した。
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