胡蝶の香

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胡蝶の香

「ど、どうしたのだ、いきなり…」 え?怒っていらっしゃらない? 「はい、いつも気を抜くなといわれておりますのに… 申し訳ございませぬ。」 「そ、そうであったな…。 どうやらそなたも久しぶりで 疲れて居るようだ… なにやら、 あまり集中できていないようだの。 いや、 私も今日は何故だか 気が散ってならぬのだ…。 すまぬな…。 今日はこれで終いとするか…」 終わり? ほっとしたような、 ちょっとがっかりしたような… 「おお、そうであった。 せめて名前ぐらい、 と思っていたのであった。 あまり使わない字を練習するより、 まず名前くらいしっかり書けねばな。 手本なしで、書いてみよ。」 「はい…」 胡蝶は自分の名が好きであったが、 書くのはちょっと苦手だった。 蝶の字の左右の釣り合いがどうしてもうまく取れない…。 旁(つくり)の部分だけ大きくなってしまうのだ。 「…どうした?うまく書けぬか?」 一之丞はすっと胡蝶の背後に回ると、 彼女の手をとった。 「こうして… このようにすれば、 左右の釣り合いが取れるのだ…。 わかったか? 一人で書いてみよ…」 「…ん、そう。 それで、よい。できたであろう?」 「はい、ありがとうございます。」 頬が赤くなっている気がして俯いたまま答えた。 顔を見られたくなかった。 「…衣に香を焚き染めたのか? よい香りがする…」 「はい、女中頭様がくださいました。 気分の悪いときに燻く(たく)と 良いとお教えくださって。 香は高価なので、 燻いたことがございませんでしたが、 あまり良い香りなので一時だけではもったいなくて… 衣に香りが移るほどは燻きませんでしたが…」 「香が好きか?」 「はい。香を燻いたのは初めてでございますが、よいものでございますね。 良い香りをかぐと、 気持ちが晴れやかになりまする。」 「そうか。では、そのうちに私の持っている香木を分けて使わそう。」 「真でございますか?」 胡蝶の顔がぱっと華やいだ。 「…ん、 待てよ… ただ与えるのは詰まらん… いや、良くない。 やはり、褒美でなければな… 何が良いか… 考えておこう… 謎賭けがよいか… 和歌が良いか… そういえば、刺繍はどうなっておる? 少しは上達したか?」 げふん… これでは当分いただけそうにないわ… 「も…申し訳ございません…。 刺繍は苦手でございます。 いま少しご猶予を…」 「…そうか。 それは残念であるな…。 まあ、あせらず励むことだ。 たまには、 師匠にも褒美があっても しかるべきではないか? 一枚くらい手巾(てぬぐい)が欲しいが…」 横目でちらりと胡蝶の顔を見た。 困っている顔が愛らしかった。
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