1/1
前へ
/40ページ
次へ

朝の講義の時間 相馬家は小藩ながら、 人材育成に力を入れ 学問を奨励していた。 藩主である一之丞も、 定期的に学問の師を招いていた。 「お殿様、何かお悩みですかな?」 「なぜそう思われる、師匠。 今日の私はいつもと違いますか。」 「なにやら・・・ 常のお殿様の溌剌としたものが 無いように感じられまする。 呼吸が浅く、 気が澱んでおられるようですな。」 講義の後、 一之丞は自室に戻り、人を遠ざけ、 考えに耽った。 結跏趺坐で座を安定させ、 丹田に意識を集中する。 ゆっくりと鼻から息を吸い、留め、 口から細く長く吐いていく・・・ 何度も・・・ 細く長く吐いてゆき・・・ 息を吐ききる。 吐ききったところで開放し 身体に息を取り込む。 …師の目にも明らかなほど迷いが深かったとは… 『女のことに夢中になっている 一之丞様は魅力がございません。 思索に耽りなされ。』 蓮の言葉が思い出された。 こんなことでは、 そなたに叱られるな・・・ 『出口が見えなくなったときは、 視点を変えてみるのも 方法のひとつでございます。 一人の人間として悩まれていたのなら、 藩主という立場で考えたらどうなるか・・・ 藩主としての考えに行き詰っていられたのなら、 子どもとしてはどうなのかとか・・・ 見る方向を変えると、 同じものも違って見えるもの。 誰かのためにと、考えるだけでなく、 その人物になったつもりで 己であったらどうか、 想像してみる・・・。 ・・・いや、 言わずもがなのことを申し上げましたかな・・・』 師匠の言葉を反芻してみた。 胡蝶を愛しく思っていることは・・・ もはや隠しようもない・・・ 側にいて欲しい・・・ 私だけのものにしたい・・・ しかし・・・ それだけはしないと決めている・・・ 悲しい思いをさせたくはない。 だが・・・これは私の想い・・・ 胡蝶は・・・ 私のことをどう思っている・・・? 単なる主従関係なのか? 恐らく・・・ そうなのであろう・・・ 仕える主として、 私に対し敬愛の情はあるであろう。 あるいは、 そのことを 愛情と取り違えているやもしれぬ。 それは・・・ありうる。 無垢な子どもゆえ・・・ 以前の私であれば、 なんの躊躇もなく胡蝶を召した・・・ それは藩主として当たり前のこと…。 だが、 蓮との日々は、 私が、ただの一人の人間であることを 気づかせてくれた。 藩主である前に。 胡蝶も、 私の家臣である前に 一人の女人なのだ。 心を持つ一人の人間。 愛しいと思えばこそ、 幸せにしてやりたい。 胡蝶の幸せとは・・・ なんであろうか・・・ どんな出会いも、 結びつきも 必ず別れがある・・・と 蓮は言った。 死が必ず二人を分かつ時が来ると・・・ だから・・・ 別れを恐れるのは止めようと・・・ そなたは言ったな・・・ 私は、 また同じ過ちを繰り返そうとしているのか・・・ 蓮よ、芙蓉よ・・・ いつまでたってもそなたには叶わぬ。 助けられるばかりじゃ・・・ 藩主として、できること・・・ 藩主として、やらねばならぬこと… 一人の人間として、 民として・・・ 生きるには・・・ たれか!真山を呼べ! 「お呼びでございますか。」 「すまぬ。 またそちに頼みたいことがあるのだ。 薬草園を作りたいと思う。 わが藩は、 薬草をほとんど栽培しておらぬ。 自然に生えている草を取る以外は 他の藩から買い入れている。 これでは、 天候に左右されたり 疫病が流行ったりすると 途端に薬が不足し民が困ることになる。 薬草を藩内で賄えるように、 栽培方法の研究と 日本人に合った薬も研究させ、 人も養成する。 そういう場所にいたしたい。」 「しかし・・・お殿様。 そうなると、 やはり重臣達に諮らねばなりませぬ。」 「わかっている。 だが、それだと時間がかかってしまう。 なので、 まず相馬家のための 私設の施設としてつくり、 後にそれを発展させて 藩の正式な役所とするのだ。 それならば、 重役方に諮らずともできる。 最初は小さくてよい。」 「ですが、 相馬家のための薬草園はすでに城内にあるかと存じますが・・・」 「あるにはあるが、 あれはほんの数種類の薬草を育てているに過ぎん。 その仕事に当たっているのも、 相馬家の使用人だ。 学問的に学んではいない 百姓だ。 そうではなく、 指導者、技術者を育成し、 栽培技術を研究するのが目的だ。 薬草学の権威を招聘する。 師匠の元で、 学生に学ばせ実際に育てさせ、 調剤の勉強もさせる。」 「あくまで研究であれば反発もないでありましょうが、 いずれ市場に出すようにするのであると、 既存の薬種商からの抵抗があるのではございますまいか? 幕府からも圧力があるやもしれませぬ。」 「既得権益が犯されるからな。 なるべく抵抗を少なくするためにも、まずは小さく始めるのだ。 薬も、初めは市場に出すのではなく、 貧しい者へ分け与える形にする。 それも、婦人薬に限るというのはどうかと考えている。 女人は、節目節目で体が変わる。 その折に、体調も崩しやすい。 それなのに、 今の世では 男に比べて軽んじられている故、 我慢をしがちだ。 病を呼ぶのは不吉だとの思い込みから、 薬師に見せなかったり、 貧しいゆえに放置することも多かろう。 婦人薬は、 薬の売上に占める割合は少ないのではないかと思う。 影響の少ないところから、 既成事実を積み上げていくのだ。」 「なるほど・・・ まず私設の研究施設で出発し、 その間に・・・」 「そなたに根回しをしてもらいたいのだ。 その上で、時期を見て重役会議に諮る。」 「かしこまりました。」 「そして、学生だが・・・ まずは2、3名で良いのだが、 その中に・・・」 その言葉を聞いて、真山は驚いた。 「…まことでございますか? なにゆえ…」 「考えがある。訳は、聞くな。」
/40ページ

最初のコメントを投稿しよう!

23人が本棚に入れています
本棚に追加