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忘れない
思い返せば、
あの日の芙蓉は
どこか変であった。
常に穏やかで
私を見ることさえ
恥じらうように
控えめで
わがままを言うことや
勝手な振る舞いなどなく
従順過ぎるほど。
なのに、あの日は…
「その、
若君様の干し柿を
いただいても
よろしゅうございますか?
実は…、好物なのでございます。
このところ、余り食が進まず…
干し柿ならば食べられるかと…。」
「構わぬが、
そなたの分を用意させるか?
食が進まぬのなら、他に、
食べられそうな物があれば
言うがよい。」
「いえ、
改めてご用意いただくより、
若君様の御膳の物を
いただきたいのです。
美味しそうなのですもの。」
「ならば、食するが良い。」
「ありがとうございます。
やはり、
若君様の御膳に上がる物は
美味しゅうございますね。
とろけるように、
甘くて…
残りもいただいて、
部屋に持ち帰っても
よろしゅうございますか?」
「うむ…」
父の御正室様に子がない為、
私が猶子となり、
嫡男として正式に
殿の跡継ぎとなることとなった。
そのため、
間もなく、
江戸へ参ることになっていた。
まだ、
側室となっていない芙蓉を
伴うことは出来ない。
「江戸へ参ったら、
しばらくは会えぬが…
必ず呼び寄せるゆえ、
辛抱して欲しい。」
「私のことを案じて下さり
ありがとう存じます。
ですが、
私は国元にてお待ちしております。
江戸屋敷には、
御正室様を一日も早くお迎えになり、
御嫡男のご誕生あるよう、
お祈りしております。」
「そなたには、
淋しい想いをさせてすまぬ。」
そんなことは…、
ないと言いたげに
芙蓉はふるふると
首を振った。
そして、
「もう一つおねだりをしても
よろしいですか?」
「なんだ。 言うてみよ。」
「お使いのお筆を、頂戴したいのです。
若君様と想うて、大事にし、
文を書きまする。」
「わかった。
明日にでも箱に入れ、
そなたの部屋に届けよう。」
「いえ、そのままで良いので、
今、いただきたいのです。」
「だが、墨がついたままで
洗っておらぬし、
墨も乾いていないぞ…
誤って、衣に墨が付けば
落とすのに難儀するであろう?」
「紙で包んだ後
油紙で包めば、
大丈夫でございます。」
「そうか…?」
なぜ、“今”にこだわるのか
不可解ではあったが、
芙蓉がそのように“我を張る”事など
一度も無かった故
言うとおりにしてやろうと、
近習を呼び準備させた。
「ありがとうございます。
大切にいたします。
あの…
もう一つだけ、
わがままを申し上げても…?」
「なんじゃ?」
「少しだけ…
抱きしめていただいても…」
みなまで言わせず、
芙蓉を抱き寄せた。
「初めてだのう…
このように、
そなたが甘えてくるなど…」
「申し訳ございません…」
「謝らずとも、よい…」
愛しい…
離れたくない…と、想った。
「もう、
御就寝になられる
時刻にございますね。
長居をし、
申し訳ございませんでした。」
干し柿と筆を大事そうに持って
芙蓉は自室に帰って行った。
その後、
頭痛がして寝付けぬから、
少し風にあたってくる
と部屋子に言って部屋を出たという。
すぐに戻るからと、
だれも供を付けず。
しばらくたっても
帰ってこない芙蓉を心配し
部屋子が探しに出ると…
すでに、池に落ちた後だった。
だが、真実は、
落ちたのではなく、
覚悟の身投げだったのだ。
芙蓉は、
懐に筆と干し柿を忍ばせていた。
江戸出立を控え
取り調べの暇(いとま)なく
誤って池に落ちたとはいえ
“藩内を騒がせた”として
芙蓉の家族は、謹慎とした。
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