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一年後 「宇山…ついて参れ。 微行(しのび)じゃ。」 声を潜め、耳打ちする。 「どちらへ・・・?」 宇山も、思わず声を低める。 「薬草園へ参る。 一年経ったゆえな・・・ 様子が気になる・・・ この目で確かめたい。」 「馬・・・でよろしいか?」 「いや、 目立たぬよう、徒歩(かち)で行く。 すぐに・・・」 「はっ・・・」 真山にだけ耳打ちすると、 二人は身を窶(やつ)して出かけた…    --------- 「これは、これはお殿様・・・」 「しっ・・・微行じゃ。 学生達は、どこにおる?」 「ただいまは・・・ 畑にて、手入れをしております。」 「分かった。案内は、よい。 宇山、 先生には後で挨拶に伺うと伝えてくれ。 私は先に、学生達の様子を見に行く。」 「は、かしこまりました。」    -------- 「石山様。 これ、ほんの気持ちです。 差し上げるような物ではないのですが、 我が家は貧しいのでこのようなものしかなく・・・。」 申し訳なさそうに胡蝶が差し出す。 「やあ、すばらしいね。 胡蝶さんのお手製でしょ。 ありがとう。きっと喜ぶよ。 胡蝶さんは、 こういう特技もあるんだね。 後は花嫁修業をしてお婿さん探しかな。」 「そんな・・・ 私などもらってくださる方などおりません。 父もなく、 後ろ盾になってくれる人もおりませんし。 ですから、 こうして女中となって働いております。 でも、こういう生活も性にあっているようでございます。 身体を動かすことは好きですし、 新しいことを学ぶのも、 初めは苦痛でしたがだんだん楽しくなってまいりました。」 「女人が学ぶということが、 今はあまりないからね。 大変かなと思って見ていたけれど、 よかった。 一生懸命やっていれば、 きっと後々役に立つよ。頑張ろうね。 お殿様は、 民のためを思ってここを開かれたのだから、 僕たちも期待に応えないと。」 お殿様・・・と言う言葉を聴いて、 胡蝶の胸はずきんと痛んだ。 傍目からは、 仲良く楽しげに語らっているようにしか見えないふたり・・・ その様子を、 物陰から一之丞が見ているとは 思いもよらず・・・ 一之丞は、 腸(はらわた)が抉り取られるような痛みを感じた・・・ 思わず顔を背け目をつぶる。 それでも、 今の光景が瞼の裏に浮かび離れない… あのように楽しげに笑う胡蝶を 見たことがあっただろうか・・・ そうなることを望んでいたはずなのに… 自分の中の何かが音を立てて崩れていくようだった・・・ 一之丞は、足が張り付いたように その場から動けなくなった。 せ、先生のところに行かなければ… 恐ろしいものから逃れるように、 少しづつ後ずさる・・・ 「お殿様。お探ししましたぞ。 こんなところにおられるとは・・・ どうなされました。 お顔の色がすぐれませぬが・・・」 「いや、なんでもない。 先生に挨拶してまいろう。 すまぬが、水を持ってきてくれぬか。 それと・・・ 後で・・・ あの背の高い学生に 城に参るようにと伝えてくれ。」 一之丞は宇山が持ってきた水を飲むと、息をついた。 「先生、学生達がお世話になっております。 学問の進み具合はどうでしょうか。」 「私の推薦でこちらに来た者たちは問題ございません。 胡蝶殿は、 基礎が皆より不足しているので苦労しておりますが、 挫けず頑張っております。 年若い女人なので、 大丈夫かと正直危惧しておりましたが、 さすがお殿様のお眼鏡に適った人材かと。 胡蝶殿の健気に励む姿を見て、 周りの学生もよい刺激を得ております。 素直な性格ゆえ、 かわいがられてもおりますよ。 特に、石山君と仲が良いようですな。 ええ、あの一番長身の学生です。 彼は優しい性格ゆえ、 妹の如く感じておるのでしょう。」       ------- 石山は、 初めて間近に接する“お殿様”を前に 身体を硬くして平伏していた。 「呼び立ててすまなかった。 そちに折り入って頼みがある。 私の切なる願いだ。 ぜひ、聞いてもらいたい。」 「何なりと、仰せのままに・・・」 「そちと胡蝶を娶わせたいと思っておる。 胡蝶をもらってはくれぬか。頼む・・・」 頭を下げる一之丞・・・ お殿様が、 私に向かって頭を下げられる? どういうことだ・・・ ありえない殿の姿に驚きながら、 再び這い蹲る(はいつくばる)ように平伏する。 「そ、そればかりは、 平にご容赦くださいませ。」 「なぜじゃ・・・。胡蝶が、嫌いか? 胡蝶は、 そなたのことを慕っておるようだし、 ふたりは殊に仲が良いと先生に聞いたが。」 「それは、胡蝶殿は私のことを兄のように思っておられるのです。きっと。 私も、妹のごとく思っております。 私には、許嫁がおります。 まもなく、婚姻する運びとなっております。 このことは、 先生も胡蝶殿もご存知のこと。」 「まことか?」 「偽りではございませぬ。 先ほども、 胡蝶殿より祝の品を贈られたばかりにございます。 これでございます。」 学生が懐から差し出したのは、 一之丞が見た手巾だった。
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