ものがたりを演じる

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ものがたりを演じる

ある夕暮れ 今日も人を遠ざけて、 殿(一之丞)は、 独り、池の畔で 水面を見つめていた。     自ら身を投げ、 私の命を守るため 水の中に沈んでいった芙蓉。 父の意志に背き、 私の命を守るため 誰からも悼まれることのない 死を選んだ。 そなたの心を 固い決意を知らず… ただ、淋しさのあまり 身を投げたのだと 思っていた 芙蓉は、 そんな身勝手な 弱い人間ではないと わかっていたのに… 冷たかったであろう… 父と私の間で 苦しんだであろう… もっとそなたと、語り合いたかった。 共に書を読み 歌を詠み 庭を散策し… そなたと一緒の時が なにより心が和んだ そなたは、 もうこの世にはいない。 触れることも、 声を聞くことも叶わない。 そなたに守ってもらったこの命。 それを活かしきり、 己の使命を果たしきる。 それが そなたの想いに応える 唯一の道。 わかっている。 だが… 人が生きるとは、 自分が綴った物語を 演じているのだ、と そなたは言ったな…。 私が、この人生を選んだのか? そなたなしで独りで… 藩主としてこの地を治め、 領民のため働く… 私の子を産む女子は いるであろう。 子を成し 家を継いでいくことも 藩主としての責務。 しかし、 そなたのように 心通わすことができる 者がいるだろうか 人から見れば 羨むような 人生であろう。 庶子ながら 長男として生まれ、 嫡男となり “殿”と呼ばれる身 思い通りにならぬことなど ないと、思うかもしれぬ…。 しかし、 実際は… 愛妾ひとり守ることも出来ない 情けなさ。 生母を早く亡くし、 後ろ盾となる 母方の祖父も亡くなり、 母の実家は 以前より力を失っている… だから芙蓉の父は、 私を廃し、 弟を立てようとしたのだ。 芙蓉の姉、茜は、 弟の正室となっている。 思惑通り、 弟が父上の後を継いでいれば… 茜が男児を産んでいれば… 芙蓉の父が 藩の実権を握ることになる。 それほどまてして、 権力が欲しかったのか… 我が藩のような小藩は、 皆が心を一つにし 力を合わせなければ あっという間に 取り潰されてしまうというのに。 愚かなことだ… 企みに関わった弟は蟄居とした 芙蓉の実家を潰すのは、 忍びないゆえ、 父は、隠居させ 親類から養子を迎え継がせた。 継いだ養子は、 まだ幼い。 もう、あの家の者が 悪しき企みをすることも できまい。 「殿、 以前お側におられた 芙蓉殿の母が参っております。」 「うむ…私が呼んだのだ。 済まぬが、 ここへ来るように伝えてくれ。」 「…はい、…ですが、 もう日が落ちる時刻でございます。」 「芙蓉の母と話が済んだら部屋に戻る。 灯りを灯し、茶の用意も頼む。」 「かしこまりました。」
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