矢口冬彦の13

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「来てくれてありがとうね」 「まぁ、予定もなかったので」 嬉しそうに笑う小堺さんへ可愛げのない返答をしたが気にも止めていない様子で、「行くべ行くべ」と劇場まで案内を始める。 その横を着いて歩けば、茨城よりも賑やかで東京よりも静かな柏の景色がゆっくりと流れていく。 電車の音、人の話し声、パチンコ屋の騒音。 ちょっと違うけど、ちょっと懐かしく思えた。 「じゃあ矢口くんは席に座ってて。俺は控室に行くから」 劇場入り口前に着いた俺たちは一旦解散をし、俺は初めて入る劇場に少しだけソワソワした。 想像していたよりも小さなこの劇場の中の匂いは新築の匂いがした。 自由席だったので一番後ろの席を選び座る。 まばらにいる観客席の人々は俺と同じ劇団員の身内だろうか? 目の前にある小さなステージに小堺さんが立って演技すると思うと、なんとも不思議な気持ちになった。 「あの」 開演時間を待つ俺に、男性が声を掛ける。 確実に知らない人に声をかけられた俺は一瞬驚き、声のした方へ顔を向けた。 そして、動揺した。 「冬彦」 カチっと、凹凸が嵌まる音がした。 見知らぬ男性の顔を見た瞬間、霞の声を思い出した。 それは彼のせいだ。今目の前にいるこの男性のせい。
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