矢口冬彦の13

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橙色の照明が反射する黒い髪と切れ長の目。 違うのに懐かしくなる雰囲気。 胸がキツく締まる。 「お隣り失礼してもよろしいですか?」 律儀に俺の隣に座る許可を求めてきた男性に無言のまま頷き顔を逸らす。 声を出せば思わず漏らしてしまうかもしれないから。「霞」と。 最前列は空席が多く見受けられたが、俺の座る一番後ろの席は一席抜かしで埋められている状態だった。 わざわざ彼が見知らぬ俺の隣に座る理由も、こういった座り方をされていたせいだ。 平然を装ってはいるが、体の中で動く心臓はとても慌てふためいていた。 霞を思い出すだけでまだこんなに乱されるなんて悔しくて切なかった。 ドクン、ドクン。メトロノームみたいに一定の音で跳ねながら鳴く心臓。 その煩い音を掻き消すように劇場内に開演を知らせるアナウンスが流れた。 ゆっくりと照明が消えていき、舞台上に灯された青いスポットライトがこちらに反射する。 パチパチとまばらに鳴る拍手の乾いた音は、隣からも聞こえた。 青いスポットライトと乾いた拍手の音は荒波を彷彿とさせた。 数年前に見た一月の暴風の早朝。白んだ空に暴れる波。 そう。こんな感じだった。 「これから先もずっと一緒にいよう」        俺はそうしたかった。 「年老いてボケても、きっと冬彦の事は覚えてる」          嘘つけ馬鹿野郎。 「冬彦?」            なに? 「お前が居てくれれば幸せだ」 舞台上に小堺さんが壇上し、熱演している。 他の劇団員も叫んだり泣いたりしている。 その熱の籠った演技を見ているだけで、頭には内容が入ってこない。 それなのに俺は泣いていた。 違うけど懐かしい雰囲気。 青いスポットライトに拍手の乾いた音。 あの日の海の記憶。 霞の、記憶。 一瞬でフラッシュバックして、処理が追いつかなくて、勝手に涙が溢れていた。            「冬彦」 また、霞の声がした。
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