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窓ガラスがけたたましい音を立てて砕けた。幸せな時間を求めてまだ侵攻の手の伸びていないこの地にやってきたが、限界のようだ。
「あっ」テーブル上のティーセットが跳ね上がって床に散らばった。フローリングの木目を紅茶が流れる。カップに手を伸ばそうとするスズカを尚も力強く抱き締めた。苦しいよ。胸元からか細い声が聞こえる。
スズカは友人関係の記憶は失くしても、僕とティーセットを買いに行った記憶は失くさなかった。両親との記憶は失くしても、僕の好きだった紅茶の淹れ方は覚えていた。嬉しかった。例え中身が幼子に変わっていても、共に生きた二十余年の日々が無かった事になっていても――。
不意に、頭を撫でられた。ハッとして抱き締めていた腕を解く。スズカがま真っ直ぐに僕を見つめていた。
「スズカ」
顔つきから幼さが消えていた。とても落ち着いていて、柔らかな微笑みを湛えている。数分前まで無垢だった瞳に暖かい色が浮かんでいた。
目頭が熱くなり、涙が止めどなく溢れた。拭っても拭っても際限なく溢れ出し、ついには嗚咽が漏れ始めた。
「あなた」
そう呼ぶのは心を病む以前のスズカだった。僕はもう一度、強く強く彼女を抱き締めた。
一瞬、とてつもなく大きな音を聞いた。かと思うと、ピタリと音が消えた。静寂。
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