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おみつ
小次郎爺さんは慣れた手つきで、お茶を淹れて弥助にすすめた。
「わしには二人の娘がおる。もう嫁いじまったが。」
「うん、知ってる。」
囲炉裏の脇に胡坐をかいて座り、お茶を一口すすって爺さんはまた口を開いた。
「わしの妻のことも知っとるか。」
「ううん、それは知らねぇ。」
爺さんはうんうん、と頷き赤くぼうっと色づく炭を見ながら言った。
「誰にも言ってないがな、わしの妻は桜だったんじゃ。」
突拍子もないことを言い出す爺さんは、ふざけているようには見えなかった。弥助を騙そうとしているようにも思えない。弥助は黙って続きを待った。
「あれは、師走も終わりに近づいたころじゃった…。」
その日は風が強く、空気がとても乾燥していた。
火元は隣家のかまどだった。あっという間に燃え広がり小次郎の家の植木も火に飲み込まれた。慌てて植木を切り倒したが、火の勢いは強く自慢の桜まで届いた。
苦渋の決断で五本並んでいるうちの燃える植木から四本目の桜を切り倒し、最後の一本を火から守ることができた。
火事から数か月後の暖かな春の日。その女は突然小次郎を訪ねてきた。
「行くところがないのです。私をここに置いてください。家のことは何でもやりますので。」
肌が白く頬に薄く紅の差した彼女は、とても美しかった。どこか儚げで、瞬きの後には消えていなくなってしまうのではないかとさえ思えた。
両親は他界し、良い歳して縁談一つ持ち上がっていなかった小次郎は、その申し出を受け入れた。女の名前は「おみつ」だった。
おみつはよく働いた。掃除、洗濯、炊事、全て文句ひとつ言わずこなした。毎日畑仕事から戻った小次郎を労わった。小次郎も家事をこなし家を守ってくれるおみつに感謝した。
そんなおみつと小次郎が正式に結婚するのに、そう長い時間はかからなかった。出身のわからぬおみつだったが、その働きぶりと控えめな性格から村の人々は彼女を村の一員として受け入れていた。二人は皆に祝福された。
おみつと小次郎は子宝にも恵まれた。かわいい二人の娘は、小次郎の仕事の疲れをいつも癒してくれた。
小次郎は幸せだった。
ただ、気になることがいくつかあった。冬になると、おみつは目に見えて体力を落とすのだ。何かの病気なのでは、と何度も尋ねたが「そういう体質なのです。」と弱々しく微笑むだけだった。
また、時折おみつは夜中に寝床を抜け出した。厠だろうと小次郎は思っていたが、ある時に気になってあとをつけてみた。おみつは厠へは行かなかった。庭の一本残った桜の木の元へ向かった。
おみつは右手でそっと桜の幹に触れた。すると、桜とおみつがぼうっと光り輝いたのだ。たった数秒の出来事だったが、小次郎は植木の陰から確かに見た。
おみつが小次郎の元に来てから、一本残った桜は花をあまり咲かせなくなっていたことを小次郎は思い出した。
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