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引越の朝
「これで、全部ですね? では、こちらにお願いします」
15箱の段ボールだけを積み込んで、トラックの後部ドアが閉じられる。冷蔵庫や洗濯機といった大型家電は回収業者に引き取ってもらったので、戸建て一軒家から出た2人分の荷物としては少ない方だろう。
僕は、引越業者の責任者が差し出したボールペンを受け取り、確認書類にサインをして返す。
「はい、よろしくお願いします」
「ありがとうございます!」
青いつなぎ姿が助手席に乗ると、トラックは重いタイヤ音を鳴らして走り去った。
「……寂しくなるわねぇ」
民家一軒分の空き地を挟んだお隣から、加東のおばさんがエプロン姿で現れた。彼女は、物心ついた頃から僕を知る1人だ。
「長い間、お世話になりました」
引っ越しの挨拶は、既にアカリと一緒に済ませていたが、改めて頭を下げた。
「ほんと……寂しくなるわぁ」
「皆さん、お元気でお過ごしください」
「隼人ちゃん。なにかあったら、遠慮なく相談しに来ていいからね?」
「ありがとうございます、おばさん」
母よりも祖母に近い年齢のおばさんは、人の良さを刻んだ目尻をジンワリ湿らせながら小さく頷いて、踵を返した。
この界隈――古い地縁が残っていた地方中核都市の住宅街でも、5、6年前から過疎化が進んで、若い人達は都会に、高齢世帯は特養などの施設へと移って行った。肉親を亡くした僕達も、僕の大学進学を機に、この家土地を売って新天地へ羽ばたくのだ。
……そうだ。
ふと思い立って、50m先の駐車場に設置されている自販機まで足を運んだ。こんな住宅街で買う人などいるのかと訝しんだが、意外なことに「コーンスープ」にはいつも売り切れの赤いランプが点いている。今朝は、どうだろうか。
「……誰が買っているんだ」
やはり点っている赤ランプに苦笑いして、ブラックコーヒーとミルクティーの缶を買った。素手で持つには指先が冷える。3月も半ばを過ぎて暖かくなって来たとはいえ、時折頰を撫でる風には、肌寒さが残っている。
明日になれば――。
ここより南に越していく。1年を通して温暖な気候だ。あちらは既に桜の開花宣言が出たと聞く。アカリと2人、凍えるような北風を忘れて、穏やかな日々を紡いでいくことが出来るだろう。
「ごめん、遅くなった」
鍵が開いたままの玄関は少し無用心だったと反省しながら、真っ直ぐ居間に向かう。ここを買った不動産会社の担当者が来るまで、彼女は最後の掃除をしている筈だ。
「荷物は行ったの、ハヤト?」
「……お前、シュリか?」
カーテンのないベランダ窓の前で、細いシルエットが振り向く。アカリと同じ顔をした女の子は、フロア用ペーパーモップを壁に立て掛けると、スタスタと僕の元まで来た。
「そうよ? なぁに、別れの乾杯? 気が利くじゃない」
「わ、別れ? 僕は、そんなつもりじゃ」
「忌まわしいものは捨てていかなくちゃ。もらうわよ?」
そう言うと、シュリは迷わずに、僕の右手からブラックコーヒーの缶を抜き取った。
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