下町奉行、上様と追いかけっこする

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 保田伸允(やすだのぶちか)はゆったりとした足取りで藺草(いぐさ)香る畳の上を歩いていた。涼やかな風の吹く中柔らかい陽射しが足元を照らし、なんと過ごしやすい日か、と青い空に目を細める。梅の花が(ほころ)ぶ庭に(うぐいす)の鳴き声が遠くから風に乗って保田の耳に届く。もう春なのだなあとしみじみと風流な気分に浸りたい保田であるが、目や耳に届くのは春の気配だけではない。  保田の三歩ほど先には真紅の衣を背負うようにして(まと)う人物が()り足で走っている。走っている、とはしかし本人がそう思っているだけで、ゆったりと歩いている保田がその気になればすぐに追い越せる速さである。その後を付かず離れず歩を進めていた保田は、そろそろ良い頃合いだろうか、と右腕をすっと伸ばし、真紅の衣の肩に手を置いた。 「あっ」  真紅の衣がぴたりと止まる。くるりとこちらを振り向いたその人の顔を見た瞬間、保田は息を飲んだ。  なんと可憐な。 「ふふっ、捕まってしもうたのぅ」  咲き誇る梅の花たちさえも霞むような美しく愛らしい笑顔に、思わず保田は目を閉じた。  (まばゆ)い。眩過ぎる。  保田に眩く輝く龍顔を惜しげも無く向けるその人は、天下の大将軍である。 「さあさ、のぶちか」  眩いその笑顔が保田に近づいてくる。 「ほれ、脱がすがよい」  できる限りの無表情を取り繕い、保田は(わず)かばかり震える手をその真紅の襟にそっと添えた。そしてするりと衣を、その肩から滑らせるようにして脱がせると——  橙色の衣が現れた。 「うふふっ、では次じゃ。十数えよ!」  言うが早いか、重そうにその身を翻して橙色の衣は保田から遠ざかっていく。 「ひーい……ふーう……みーい……」  やけに間延びした調子で保田は十数え始めた。そして、なかなか遠ざからない橙色を前にすん、と冷静になって考える。  はて、何故斯様(かよう)なことをしておるのだろうか。  五日程前の夜のこと。保田は白い寝間着に身を包んだ上様に同じお布団に入るよう迫られていた。畏れ多い、と保田は平身低頭した。いつものことである。  半年程前、図らずも江戸を揺るがす大事件を収める立役者となった保田は、その功績から上様に側用人として取り立てられた。将軍として采配を振るう上様は非常に頼もしく、家臣からの信頼も当然厚い。そのような上様に仕えることとなり、微力ながらも力となれているのが嬉しい保田である。  しかし、二人きりになると別人のように上様は甘えてこられる。保田は元が貧乏侍、侍とは名ばかりで刀を使わず、その日の暮らしもままならぬような日々を送っていた。器用貧乏で障子の貼り替えから喧嘩の仲裁、用心棒に人捜しと様々なことをしている間に近所の者たちから『下町奉行』などと呼ばれて慕われてはいたが、貧乏長屋の煎餅布団で寝ているようなド貧民である。そのような者が上様のような高貴なるお方と同衾(どうきん)するなど、畏れ多い、あってはならぬこと、という思いが保田になかなか取れない汚れの如くこびり付いていた。 「命令じゃぞ」 と、言われてしぶしぶ、いや、本当は嬉しい気持ちを抱いて上様のお布団に入る。これもいつものことである。畏れ多いと思う気持ちは消えないが、高貴なお方に認められ、求められるというのは嬉しいものである。上様は当然のように保田の懐に入り込んだ。保田もそんな上様の頭を、(まげ)を崩さないようにして撫でる。 「のぶちか」 「はっ」 「そろそろよいのではないかのぅ」 「と、おっしゃいますと?」 「んもう、わかっておるくせにっ」  上様が月代(さかやき)をぐりぐりと保田の胸に擦り付けてきた。実際、保田には上様が何を言わんとしているのかよくわかっていた。 「そなたが余の側に来てからもう五年は経つ」 「いえ、まだ半年にございます」 「気持ちとしては、じゃ。半年でも長いことに変わりはなかろう」 「……はっ」 「何故じゃ」 「何故、とおっしゃいますと?」  なにゆえ詰め寄られているのかは承知している保田だったが、分からぬ振りをして押し通せないかと、何もない天井を見上げた。 「何故脱がさないのじゃ」 しかしながら保田から答えを聞き出したい上様は保田の太腿に自身の太腿を乗せて来た。 「なっ、おっ、うっ」 「のぶちかは余のことをどう思っておるのじゃ!」 「それはもう、尊敬申し上げております!」  即答だった。 「尊敬か!」 「はっ」 「尊敬……うぅーん、まあそれはそれで嬉しいがのぅ」  上様は保田の黒い瞳をじっと見つめてくる。保田は上様の少し茶色がかった瞳に見つめられて鼓動を速めてしまう。 「はっ、ではおやすみなさいませ」  こんなときは寝てしまうのがよい。そう思って目を閉じ、上様に背を向ける保田であったが、 「ええっ、まだ早いわ!」 と、上様が保田の背中に抱きついてきた。 「う、上様、もももう夜も遅いことですし、今日のところは寝て明日に、明日に備えましょうぞ」 「どうしたらそなたに脱がせてもらえるのかのぅ」  保田の言葉には反応せず、上様は自らの手を保田の寝間着の中に襟から滑り込ませようとした。しかし、保田はその上様の手を包むように握り、寝間着の中への侵入を拒んだ。 「そなたに触れたい」  上様の懇願するようなお声に胸をどきどきさせてしまう保田はしかし、 「もう触れていらっしゃいますよ」 と、素気無く答えてしまう。すると上様は保田の耳元にその唇を寄せて、 「そなたに触れられたい」 と、なんとも艶っぽいお声でおっしゃるものだから、保田は胸がぎゅうっと締め付けられ、思わず上様の方を向き、その玉体をぎゅうと抱きしめてしまった。 「あっ、のぶちかっ」 「ほれ、こここのとおり、触れておりまする」 「……うん」  上様は保田の熱い身体にその御身を沈めるが如く、保田に擦り寄り、そしてその玉顔を上げるとそっと保田の唇に自身の唇を重ねた。 「むっ、上様っ」 「ほれ、のぶちかも、のぶちかもっ」  保田は上様のご期待に応えて、自ずから上様の唇をそっと奪った。上様のうっとりとした表情を眼前にして、保田はそっと目を閉じ、 「おやすみなさいませ」 と、息も絶え絶えに言った。 「えええーまだ夜はこれからじゃぞ!」  ぷりぷりと怒っていらっしゃる上様が愛おしい。しかし、斯様に愛らしい上様を自分如き侍風情がこれ以上上様に手を出すなど、許されない所業ではないか。などと思いつつ、保田は可愛らしい上様の唇を優しく吸い上げた。 「んっ」  甘い声を上げる上様に愛おしさが込み上げてくる。 「申し訳ありませぬ上様。(わたくし)では上様の衣を剥がすようなことはできませぬ」 「何故じゃのぶちか……あっ」  甘美なる上様の唇を堪え切れず何度も何度も食み続ける保田であったが、その夜は上様の衣に手をかけることは無かった。  と、そのようなことがあり、保田が今日登城すると、朝のうちは仕事を坦々としてこなす尊敬すべき上様であったが、昼餉の後、どこかへ姿を消されて再び保田の前に現れた上様は、その玉体を倍以上に膨らませていらっしゃった。 「上様、そのお格好は一体?」 「うむ、これは鍛練じゃ」  明らかに着膨れていらっしゃる。何枚の衣を重ねれば斯様なことになるだろうか。一番外側に着られている真紅の衣は女物である。大奥の女中から借りられたものであろうか。上様は動きにくそうにして保田の方へ歩いて来られる。 「ほう、筋力を高められたいのですね」  上様は華奢でいらっしゃる。鍛練、と聞いて保田は上様がご自身を鍛えられたいのだと思った。 「否っ!」  しかし、上様は保田の推測を全力で否定なされた。その顔はどことなく嬉しそうである。保田は首を傾げた。 「はて、では何の鍛練でしょうか」  ふっふっふっ、と笑う上様は得意そうで、その頬を桃色に染められている。大変可愛らしい。 「そなたが余の衣を脱がす鍛練じゃ!」 「…………は?」 「余の衣を剥がせぬと申しておったじゃろ? それゆえ鍛練が必要と思うたのじゃ」 「はあ……えっ、えっ?」 「さあ、脱がしてみよ!」  着膨れて丸くなった上様の突撃を受け、保田はよろけ、膝をついた。 「あっ、すまぬ、怪我はないかっ?」 「いえ、大丈夫にござりまする」  保田は眩暈(めまい)を感じていた。着膨れた上様の衣を脱がすのと、夜、(しとね)の中で上様の衣を脱がすのは全く性質が違う。しかし上様は、夜、保田に脱がしてほしいがためにこのような鍛練を思いついたのだ。それが保田には愛おしくて仕方がなかった。  くっ、上様……可愛いが過ぎます!!  上様の可愛らしさをまともに喰らって立っていられる人間など存在するであろうか、いや、いない。しかし立たずば上様に余計な心配をおかけすることとなる。保田は渾身の力を振り絞り、ふらりと立ち上がった。 「しかしながら上様、斯様に愛らしい上様に突撃されては(わたくし)、とてもではありませんが脱がすことなどできそうもなく……」  ここは正直に申し上げてこの難を乗り切ろう、と保田は(こうべ)を垂れた。 「ううむ、そうか……」 と、着膨れ将軍は黙り込んでしまった。上様直々にご考案された鍛練を一言に断ってしまうのもいかがなものか、と保田が思い直して顔を上げると、上様は何やら考え事をされているご様子だった。その表情は政務で優れた能力を発揮しているときの尊敬すべき将軍のものであった。美しく気高い上様のお顔に保田が胸を高鳴らせているのも束の間、何やら思いついた上様はぱっとお顔からまるで花弁が舞うかのような笑みを浮かべられた。 「では、そなたが余を追いかけるがよい」 「はっ?」 「接吻のときもそうじゃが、のぶちかは余に迫られるより、自分から余に迫るときの方が情熱的じゃろ? だからそなたが余を追いかけて、追いついたら一枚ずつ脱がしていく。これならそなたの負担も少なかろうて!」  確かに先日上様と褥を共にしたときも、上様から迫ってこられたときは胸が破裂しそうでとても耐えられそうになかったが、自ずから上様に向かうときは溢れ出る愛おしさを止められず、上様の唇を小半刻(こはんとき)も貪っていた保田である。 「なるほど」  思わず納得してしまった保田の様子に、上様は大変気をよくされた。 「うむ! では始めよう。のぶちか、余を追ってこい!」  ぽん、と上様の肩を叩き、花の如く上様の笑顔が咲き、保田は上様の萌黄色の衣を脱がせた。四枚目である。上様はさっと前を向くと目の覚めるような青色の衣を揺らして再び走り出された。この頃になると上様の足取りも幾分軽くなり、保田もゆったりと歩くのではなく、少し早く歩くようにしないと上様を見失いそうになる。去っていくと追いかけたくなる、保田の性質をよく捉えた見事な鍛練と言えよう。初めは上様のお戯れにお付き合いして差し上げようという気持ちでいたが、保田は上様の背中を追いかけるほどに楽しくなっていた。保田は十数えると足を速め、目の前の青にすぐさま手を伸ばし、その肩に触れた。 「おっ、速いのぅ」 「さ、上様こちらをお向きください」  嬉しそうに振り向いた上様の青い衣を保田は丁寧に脱がせた。次に現れた深い藍色の衣に、上様の白い肌がよく映え、その肌がきらきらと輝いて見える。意識せず、保田は上様の頬をそっと撫でていた。 「上様、大変美しゅうございます」  保田のその声に、その手の感触に、上様は身震いした。身体の芯がじんと熱くなり、その玉顔を真っ赤に燃え上がらせる。 「そ、そうか?」 「はっ、お綺麗にございまする」  恥ずかしくて保田の顔が見られない。上様はくるりと身体の向きを変えると、何も言わずに走り出された。後ろで保田が十数え始めたが、今までよりも数えるのが速い。十数え終わるまでにもっと保田から遠ざからないと。そう思いながら上様は走られていた。しかし、保田はさっさと十数え終えると、疾風の如く上様に追いつき、その逞しい両腕で上様を後ろから抱きすくめた。 「!」 「捕まえましてござりまする」  耳元で保田の声がする。その息が、熱い。 「っ……つ、捕まってしもうたのぅ」  くるりと上様を自分の方に向かせると、保田は何も言わずに藍色の衣を剥いでいく。次に現れた紫色の衣も、上様によく似合っていた。保田はふわりと微笑みを浮かべた。 「おお。こちらの衣もよくお似合いです」 「そっ、そっ、そう、かの?」 「ええ、大変お美しい。上様は何をお召しになっても着こなされる、さすがは天下の大将軍であらせられますな」 「!!」  保田が上様の頬や、首までも(さす)ってくる。その感覚が微弱な電流となって、上様の身体を駆け巡った。その心地よさに思わず甘い声を上げそうになる上様であったが、なんとか保田の両肩をぐいと押して、その腕から逃れられた。 「の、のぶちかっ」 「はっ」 「百じゃ」 「はっ?」 「次は百数えよ!」 「えっ、百にございますか?!」 「そうじゃ、百数え終えるまでそこを動いてはならぬぞ!」  言うが早いか、上様は最後の一枚を翻し、全力で保田から走り去って行かれた。  舌を噛みそうになりながら百を数え切ると、保田は全速力で上様を追った。とっくに上様のお姿は見えなくなっており、途中襖を開けて幾つもの部屋を覗いたが、上様のお姿はなかった。奥の方に行かれたのだろうか、と急ぐと、廊下に突然くノ一が現れて足留めされた。撒菱(まきびし)をまかれたり、手裏剣が飛んできたが保田はそれを華麗に避け、苦無(くない)を持つくノ一と丸腰の保田による白兵戦へともつれ込んだが、手刀でくノ一の苦無を叩き落とすと、保田はくノ一の背後に素早く回り込み、首を後ろから締め、落とした。お鈴廊下に入ると、耳を覆いたくなるほどに鈴がそこここで鳴り響き、またもくノ一が現れた。しかも一人ではない。襲いかかるくノ一達の猛攻を華麗に(かわ)し、手刀でくノ一達の意識を落としながら鍵のかかった戸の前まで来た保田は、その戸を蹴破った。  その戸の向こうには薙刀を構えた大奥総取締が凛として立っていた。 「瀧島(たきしま)殿、そこを通してもらえぬだろうか」 「通したい!」  凛とした声が大奥に響き渡る。 「なれど、上様の御頼みとあらばこうするしかないのだ。保田殿、覚悟なされよ」  これは何の戦いなのだろうか。そんなことを考えながらも、保田は丸腰で薙刀を持つ大奥最強の人物である大奥総取締と一戦交えたのである。  畳に突き立った薙刀を背に、保田は奥へと進んで行った。鈴の音は消えたものの、保田は耳の奥でいまだ鳴っているかのような錯覚を覚える。あたりはしんと静まり返っており、自身の荒い息遣いと鼓動だけが聞こえてくる。保田はゆったりとした足取りで畳の上を歩いていた。日はすでに傾き、月が白々と辺りを照らし始めている。暗い廊下を進み、突き当たりにある戸の前で平伏(ひれふ)すと、保田は戸の向こうに声をかけた。 「上様、保田伸允(のぶちか)(まか)り越しましてごさります」  しかし戸の向こうからは何の返事もない。 「失礼いたします」  保田はそっと戸を開けた。  部屋の奥の御簾の向こうに人の気配を感じる。 「上様」  保田が声をかけると、わずかにその気配が動いた。御簾の方へとゆったりと保田は進んでいく。御簾の向こうからそわそわと落ち着かない空気が流れてくる。 「待て、待つのじゃのぶちか」  その声を聞いて、保田はぴたりと立ち止まる。 「はっ、いかがなされましたか」 「その、あの、なんじゃ、あれじゃ」 「あれ、とおっしゃいますと?」 「ええと、そう! この(たわむ)れはしまいじゃ! もう夜も更けたことじゃし、そなた帰ってよいぞ」  保田はしばし上様の言葉を脳内で反芻(はんすう)し、その上で御簾の方まで歩いて行った。 「のっのぶちか? 余は帰ってよいと言っておるのじゃぞ?」 「恐れながら上様」  保田は御簾をくぐり抜けた。するとそこにはこんもりと盛り上がったお布団があった。そのお布団に向かって保田は進んでいく。 「上様が始められたこの鍛練、保田はしっかりと努め上げたく存じます」 「余がしまいと言うておるのじゃ、もう終わりにせよ」 「それはなりませぬ」 「なっ、余の言うことが聞けぬと申すのか」  保田がこんもりとしたお布団を優しく取ると、そこに色鮮やかな紫が現れた。頬を桃色に染めた上様が保田を見上げ、すぐに視線を落とした。 「詮議(せんぎ)なきまま物事が変更されるのは民の不信感を煽りますぞ」 「これは政務ではなく余の戯れじゃ」 「(わたくし)にとっては鍛練です」  保田は上様の(おとがい)に手を伸ばし、その真っ赤に燃え上がるような玉顔をそっと上げた。 「上様、捕まえました」  ちゅっ、と音を立てて上様の口を吸うと、保田はそのまま上様をお布団の上に優しく押し倒した。 「ま、待つのじゃのぶちか、ま、ちょっと待って」  保田は上様直々のお願いを無視し、紫の衣を剥いだ。それが最後の一枚。鍛練は終わった。終わったのだが。 「待てませぬ」  保田は紫の下にある、白い下着の紐に手をかけた。
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