いかなごのくぎ煮

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 店主は、手際良くいかなごを水洗いし、ざるにあげた。いかなごの、小さくて細長い体が白銀に光る。それから店主は、生姜を皮付きのまま千切りにし始めた。トントン、という包丁の音と共に生姜の爽やかな香りが広がっていく。綺麗な千切りだ、と恵は思った。 店主は鍋に調味料と生姜を入れて火にかける。砂糖、醤油、酒、みりん。調味料が祖母の入れていたものと全く同じだ。恵は不思議な気持ちでそれを眺める。調味料が沸騰した後、いかなごを一つまみずつ加える仕草まで祖母とそっくりなのだから、驚いてしまう。  調味料が、もう一度沸騰したようだ。甘じょっぱい、食欲をそそる香りが恵の鼻腔を刺激する。 「いかなごを煮とる途中で、鍋をかき混ぜたらあかんよ。いかなごが崩れてまうからね」  恵は、祖母が鍋の前に立ちながら言った言葉を思い出す。店主は、鍋をかき混ぜることなく、じっと鍋を見つめている。その瞳にきらりと照明の優しい光が反射した。 「よし」 しばらくして煮汁が少なくなってくると、店主は両手で鍋をゆさゆさと揺らして、味を満遍なく行き渡らせた。そのまま汁気が無くなるまで煮詰め、ざるにあける。最後に、仕上げとして団扇を使っていかなごを冷ます。  完璧な手順だ。 「はい。いかなごのくぎ煮」  店主の明るい声が、店内に響いた。  兵庫の郷土料理である、いかなごのくぎ煮は、いかなごを醤油、砂糖、生姜などで佃煮にしたものだ。まるで釘のような見た目をしていることから、この名前が付いたと言われている。  出されたいかなごのくぎ煮は、琥珀色に輝いている。恵はごくりと唾を飲み込んだ。 「いただきます」  一口食べると、ふわりと懐かしい味が広がった。恵が心の底から求めていた味だった。醤油の少し香ばしい味の中に、みりんの優しい甘さを感じる。店主が、炊き立てのご飯を茶碗によそって出してくれたので、くぎ煮の余韻が残る口の中に、一口入れる。恵は何度もそれを繰り返す。永遠にこのループから抜け出したくない、と恵は思った。 「あなた、美味しそうに食べるね」  店主がじっと恵の顔を見つめながら言う。恵は、少し恥ずかしくて曖昧な笑顔を作った。そういえば、祖母にもよく言われた。「恵はほんまにおいしそうに食べるなぁ」と。 「私、今日誕生日なんです。そして、今日親友から結婚するっていう報告もしてもらいました」  気が付けば、恵は店主にそう言っていた。 「おめでたいことが二つも重なるなんて、今日はすごい日だね」  店主の言葉に、恵はただ俯いた。店主が不思議そうに恵を見ている。 (おめでたいんだよな……)  恵は、また一口、くぎ煮を食べる。紛れもない――祖母の味がした。 「私、おめでとうって言えなかったんです」  ――綾子が幸せでいてくれるのが、本当に嬉しいのに。  恵は、店主に全てをぶちまけた。店主は何も言わずに、恵の話を聞いてくれている。  話しては食べて。  話しては食べて。  そうしていると、恵の心の中のどろりとしたものが、抜けてくる気がした。それと同時に、恵の頭の中で、祖母の声が響く。 「恵。自分の幸せは自分で決めるんやど。周りの言うことに流されたらあかん。恵がどんな選択をしても、おばあちゃんは恵の味方やからね」  大学受験の時、東京行きを両親からも、友人からも大反対された恵に、祖母がかけてくれた言葉だ。くぎ煮の味が、ふっと恵の記憶を呼び起こしたのだ。どうして今まで忘れてしまっていたのだろう。 「うちの幸せは、うちが決める」  恵はそう呟いた。 「ごちそうさまでした」  恵は満たされた気持ちで、支払いを終えた。店を出ようとすると、店主が「ちょっと待って!」と慌てて恵を引き留める。 「お誕生日、おめでとう」  店主は花のように眩しい笑みを浮かべて、手作りらしいクッキーを渡してくれた。ふっくらとしたクッキーの中には、たくさんのチョコチップが散りばめられていて、見ているだけで顔がほころんでしまう。恵の心に、じんわりと温かいものが広がっていく。もらったクッキーを大事に鞄にしまうと、恵は店を後にした。 (絶対に、また来よう)  恵は空を見上げた。温かな、優しい橙色の空がそこにあった。  恵は、その空を眺めながら、「結婚おめでとう」と綾子にメールを送った。
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