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店主の家系は、ちょっと特殊らしい。代々、親から子へ「他人が食べたいと思っている料理のレシピがわかる」能力が受け継がれているらしいのだ。レシピがわかると言っても、きっちりと分量などがわかるわけではないらしい。頭の中に突然、相手が思い浮かべる料理のイメージが下りてきて、身体が自然に動くのだそうだ。
「だから、代々うちの家系は食堂をやってきたんだ。食堂だと、この能力を活かせるからね」
「相手の思い出の料理を作れるって、素敵な能力ですね」
摩耶は心の底からそう思った。誰にでも、思い出の味が恋しくなる瞬間はあるだろう。そんな時、店主の存在はどれだけありがたいことか。だけど、店主は苦笑いしながら言う。
「でもねぇ……私、ずっと食堂をやりたいと思えなかったんだ」
「え?」
摩耶は思わず訊き返したけれど、店主は「そろそろニ十分だ」と料理に戻ってしまった。店主がフライパンの蓋を持ち上げると、ふわりと甘い香りが舞う。フライ返しで生地の焼き目を確認すると、こんがりと綺麗なキツネ色になっていた。
「うん、いい感じ」
店主は型を外すと、さっと生地をひっくり返す。裏面にも焼き色を付けて、皿に移すと、メープルシロップをたっぷりかけ、バターをひとかけ載せた。実に、完成まで三十分。待ちに待った瞬間がやってきた。
「はい。ホットケーキ」
店主のはきはきとした声と共に目の前に置かれたホットケーキは、ふんわりと積み上がっている。それを見て、思わず顔がほころんでしまう。
「いただきます」
一口食べた瞬間、素朴な卵の風味が広がった。外はサクサク、中はもっちり。じっくりと焼き上げたからか、自分で作るホットケーキとは、全く食感が違う。じゅわっと溶け出す、バターのほんのりとした塩気が、ホットケーキの優しい甘みを引き立てている。
――求めていたのは、この味だ。
「このホットケーキ、高校生の頃によく行っていた喫茶店で食べていたものなんです。その喫茶店、最近閉店してしまったんですけどね……」
「それは残念だったね」
店主の言葉に、摩耶は頷く。
「香乃と喧嘩なんてしなければ良かった……」
もう何度もした後悔を、思わず口に出していた。香乃と喧嘩をしたことで、上京前にメタトロンに行けなくなってしまったこと。まだ香乃と仲直り出来ていないこと。色んな感情がこんがらがってしまっていること。店主は摩耶の話を静かに聞いていた。
「身近なものが、いつまでも当たり前にあるとは限らないよね」
店主がどこか寂しそうな顔をして言う。
「私ね、お父さんと仲が悪かったんだ。お父さんは、私に『食堂を継げ』っていつも言ってたから。でも、私には別に夢があった」
店主は、ぼんやりと遠くを見つめながら言う。チクタクという心地良いリズムが、店に響いている。
「私たちはいつも衝突するようになった。『お前しか、この店は継げない』『お前は料理をするために生まれてきた』そんなことを言われる度に、どんどんお父さんが嫌いになっていったんだ。だから、私は家を飛び出した。自分の夢を叶えるために」
まぁ、結局叶わなかったんだけどね、と店主は笑った。
「私が自分の夢を追い続けてる間に、お父さん、死んじゃったんだ。不思議なものだよ。あれだけ言い合ってたのに……いざ、いなくなっちゃうと、心に穴が開いたような気がした。お父さんは最期まで私に店を継いで欲しいと言ってたって、お母さんから聞いた時、私決めたんだ。私が『食堂おもひで』を受け継いでいくって」
店主は愛おしそうに店内を見回す。自然と、摩耶もその視線を追っていた。
『食堂おもひで』
その名の通り、ここで色々な人々が、大切な思い出を味わい、未来への活力を付けてきたのだろう。
「お父さんが『食堂おもひで』をこの建物に移転させたんだけど、“食堂”って感じじゃないでしょう、この建物。本当に、センス無いよねぇ」
そう言いながらも、店主の目は優しい。
「……お父さんが生きてる間に、もっと向き合っておけば良かった。今は、そう思ってる」
――身近なものが、いつまでも当たり前にあるとは限らないよね。
店主の言葉が、摩耶の頭の中に巡る。摩耶は、ホットケーキをもう一口食べる。柔らかくて、甘くて、懐かしい。普段なら、夜にホットケーキはちょっと……と思う摩耶だけど、今はフォークが止まらなかった。
「身近な人は大切にせなあかんがね。その人たちへの感謝の気持ちを持てとりゃあ、それでええんだ」
摩耶にホットケーキを焼いてくれたオジサンは、いつもそう言っていた。
(香乃とちゃんと話さなきゃ)
懐かしい味に包まれながら、摩耶はそう決心した。
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