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陽光の下の桜
蒼天国に遺された一つの詩がある。
春の宴は姫のため 夏の宴は殿のため
幼き絲はまだ弱く 結び目は固い
どんなに遠く離れても
どんなに時を隔てても
いつか二人が巡り逢う
そんな願いを込めおきて
二人の絆が切れぬよう
紅と螺鈿の道を分かつ
春の宴の宵桜 逃れし人を見送りて
夏の宴の天の川
二人を分かつ流れは止まぬ
絲は太く丈夫になりて 結び目は浅く
幾つもの花は舞い散り
幾つもの星は流れ
時を経て
再び巡り逢わんとぞ願う
いいえ、必ずまた出逢う
この詩が知らせる、運命の情絲の物語が始まる。
屋敷の内庭に、一本の見事な桜の木がある。今では多くの花をつけ美しく咲き、春の盛りを教えてくれる。
〈あの子はどうしているだろうか・・・〉
泰極は、桜を眺めながら想い出していた。幼き日に一度だけ見た、赤ん坊のことを。
〈あの赤ん坊を見たのは、こんなふうに桜が美しく咲く春の陽光の下だった。覚えているのは、赤ん坊の顔と名前だけ。抱きかかえられた赤ん坊は、元気よく泣いていて、私がのぞき込むと驚いて泣き止み笑ったのだ。赤ん坊が笑いながら私に向かい手を伸ばしたので、私は思わずその手を取った。すると赤ん坊は、私の指をギュッと力強く握ったのだった。〉
泰極には、ある赤ん坊の面影が浮かんでいた。
〈私はあの時、嬉しくなって、つられて笑い返した。握られた手の力強さを今も思い出せる。確か名前は七杏。父上は真剣な眼差しで「泰極、この子の顔をよく覚えておくのだぞ。決して忘れるでないぞ。名は七杏だ。」と言ったのだ。少しの憂いが交じった声で。そして父上は、悲し気な微笑みを残した。〉
泰極に残る面影は、赤ん坊から父の悲しげな顔に変わった。
〈私と七杏が会ったのは、その時限り。それからしばらくして、赤ん坊の七杏はいなくなった。父上に聞くと、遠く異国に送られたと言った。その身の病を治療するために異国へ行ったのだと。
あれから随分と時が経つ。あの赤ん坊は…七杏、君はどこで過ごしているのだろうか・・・〉
泰極には、今年はより一層見事に桜は咲き、庭に賑わいをもたらしているように見えた。それでいて風情は、静かでしとやかに。そんな美しい桜にあの赤ん坊を重ねながら、泰極は一人で昔の事を想い出している。
すると急に胸の護符が白く光った。
〈急にどうした? そういえば前にも護符が光った事があったな……
あれは十歳の時だ。叔父上の家の宴に招かれ、父上と出かけた秋のことだ。従兄弟の泳元と卓にあった芋を手に庭へ出た時だ。大人の宴に飽きて芋を焼いて食べようとしたんだ。池の近くにあった鉢の稚魚を放ち、二人で鉢を東屋へ運び中を拭いて集めた枯れ葉を入れ、火を点けて芋を焼いた。
待っていると突然、鉢が割れ東屋の床板に火が移ったのだ。火は風にあおられ、あっという間に燃え広がった。私と泳元は火に包まれ恐ろしさのあまり泣き叫んで、その声に驚いた大人たちが駆けつけてくれた。
その時、私が首から下げていたこの護符が白く光り、現れた霧が私と泳元を包み込み火が消えたのだ。その後だ、その様子を見ていた大人たちが ‘法力に守られた世子’ と私を呼ぶようになったのは。〉
そう思い返しながら護符を握っていると、
〈そうだ。十三歳の時も。この庭のあの桜の木に来た、蒼い鳩に近付いた時もだ。父上はまた、危険が迫っているのではないかと警戒し、私を連れ急いで部屋に戻った。そして「部屋から出るな」と強く言った。
それから蒼い鳩をカゴに入れ水と餌をやり、小さな文を読み始めたのだ。しばらくして「なるほど。桜の文字か・・・」と呟き微笑んで「もう好きに遊んでよいぞ。部屋から出てよいぞ。」と解放してくれたのだった。〉
泰極は護符が光った時の事を、もう一つ想い出した。
「泰様。」
不意に呼ばれた。
驚いて振り返ると、そこに侍従と共に一人の見知らぬ娘がいた。涼やかで美しく、どこか儚げではあるが芯の通った感じの娘だ。娘は、異国の言葉で礼をすると、少し微笑んだ。
「泰様、こちらは黄陽国より戻られた文世様のお嬢様で、桜様でございます。」
侍従の陽平が泰極に紹介すると
「そうでしたか。〈黄陽・・・? 桜・・・?〉初めまして、泰極と申します。」
とあいさつをした。
桜はまだ、蒼天国の言葉に自信がない。
「初めまして、桜と申します。」
と、初めて会った人への緊張もあり黄陽の言葉であいさつした。
「泰様、桜様は今、蒼天の言葉を習っている所でございます。今は、初めましてとごあいさつなさいました。」
と、すかさず陽平が添えた。
「なるほど。そうでしたか。今日は何故ここへ?」
泰極が陽平に尋ねると
「はい。今日は辰斗王に上巳節の御あいさつに。これから参るところでございます。」
と答えた。
「ならば私も参ろう。さぁ、ご一緒に。」
泰極も一緒に辰斗王の元に向かった。泰極は初めて会った桜に惹かれ、そのまま離れ難く想ってしまった。
辰斗王は部屋で待っていた。
「おお、陽平。何? 泰極も一緒か? これは皆で・・・」
「はい。父上。内庭で桜木を眺めていた所、ちょうど桜様とお会いしまして。ではご一緒にとお連れ致しました。」
「はははっ。そうであったか。それは善い。」
辰斗王は嬉しそうに笑った。
すると桜が、
「辰斗王。本日は上巳節のお祝いを申し上げます。そして、上巳節は私の誕生日でもあり、この日を実の両親と蒼天国で祝えるのも辰斗王のお陰でございます。無事に今日、十七歳を迎える事が出来ました。感謝しております。」
と、黄陽と蒼天の言葉を混ぜながら挨拶した。桜の言葉が届かぬところは、陽平が添えてやった。
「そうか。そうか。そうであった。今日は誕生日だったな。おめでとう。
そなたが無事に蒼天に戻ってくれて何よりじゃ。文世も芙蓮もさぞ、喜んでいる事だろう。言葉も少しずつでよい。もう何処にも行かぬのじゃ。これから少しずつ蒼天に馴染むがよい。」
辰斗王の言葉を側付きの静月が桜に伝え、
「ありがとうございます。」
微笑みながら桜が答えた。
「そうだ。泰極。これからは桜の力になってあげなさい。まだ蒼天に慣れず、不安も多かろう。歳の近い者が側にいた方が馴染みも早かろう。」
「はい、父上。私で桜様の助けになるのなら、喜んでそのように致します。」
「よし。ならば今日より桜は、この屋敷への出入りは自由とし、いつでも遊びに来てよい事にする。泰も文世の屋敷へ出向き、二人で行き来するがよい。」
辰斗王のお許しが出て、二人は自由に互いの屋敷を行き来できることになった。
この日を境に泰極は毎日のように桜に会いに行き、この国の言葉を教えた。一番最初に教えたのは、自分の名前 ‘泰極 taiji’ だった。桜は微笑んで幾度も ‘泰極’ と彼の名を繰り返した。その度に泰極は嬉しくなりはにかんだ。そして、桜にたくさんの言葉を教えた。屋敷内にある物、庭の草木、朝夕のあいさつ・・・ そうして桜に教える物は、これまでとは違って見えた。
桜は聡明で、すぐに言葉を覚えていった。
毎日のように、桜と泰極は蒼天の言葉を学んでゆく。そして日々は過ぎいつの間にか庭の桜木は新緑を迎え、雨に打たれるようになっていた。
桜と泰極が出逢ったあの日に、桜が使っていた異国の言葉… 黄陽の言葉を聞くことも少なくなっていた。次第に二人は共通の言葉で話すようになり、少しずつ互いを知るようになっていった。ただ一つ、異国の言葉で紡がれた黄陽の歌だけは、泰極は幾度も聞きたがった。桜は美しい声でその歌を唄った。心地好く穏やかな響きのその歌が、泰極はとても好きだった。その歌の異国の言葉だけは、二人に残った。
そして瞬く間に、季節は夏を迎えようとしている。間もなく泰極は、運命の誕生日を迎える。
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