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お初の文
桜の花びらが庭に咲いている。
知らぬ間に季節は巡り、この日の本は春を彩り纏っていた。
戦地から帰宅したとき、私の部屋にあったのは妻であるお初からの文のみだった。
彼女の姿はこの家にはすでになく、ただ、しんとした静かな空間だけが私の心を蝕んでいく。
お初は私の妻であったのにも関わらず、その表情も匂いもなにもかもを思い出すことができないのはどうしてであろうか。
愛していたはずなのに。
幸せであったはずなのに。
その全てを、彼女は私から、この左腕とともに奪い去っていった。
文は、怖くて読めていなかったが、それでは私のこの人生という時間は進むことができない。
覚悟を決め、文の包みを開き、一頁目を読む。
そこには私の名前が書いてあった。
それは私宛に綴られた、文であったのだ。
❀
「拝啓、親愛なる貴方様へ。
戦地へと赴かれた貴方様のことを、想わない日はありません。
心配で、心配で、
夜も眠れない日々が続きます。
けれども、わたくしも、軍人の妻でございます。
貴方様が戦っていらしているのに、
わたくしが気を弱くしていてはどうしましょう。
戦いたい。貴方様の力に少しでもなりたい。
そう、思っておりました。
数日前、とある少尉様が家にいらっしゃいました。
なんでも、貴方様のことで話があるとのことでした。
わたくしは気が気でなかったのです。
とにかくわたくしは話を聞かねばと思い、少尉様を部屋へと招き入れました。
それが、地獄の始まりとも知らずに。
貴方様のことを伝えに来たのではないのです。
貴方様のことなど知らなかったのです。
少尉というのも嘘でした。
この男は、わたくしの胸倉をぐっと掴み、
そうして畳の上に押し倒しました。
恐怖が、目の前を覆い尽くしました。
身体が固まりました。
貴方様の名前を、呼んでしまいました。
聞こえるはず……ないのに。
それでも、呼ばずにはいられなかったのです。
呼ばなければ、おかしくなりそうだったのです。
夜這いに似たその情事。
わたくしは……貴方様のものであったのに、そうでなくなってしまった。
嗚呼、申し訳ございません。
わたくしは汚されてしまった。
もう、貴方様に合わす顔がありません。
もしも、
もしも、もう一度、貴方様に会えるのなら……。
わたくしは、どのような顔をしたらよいのでしょうか。
もう二度と会えないかもしれない貴方様。
わたくしも、すぐに参ります。
ですから、どうか、どうか、――」
❀
私は、目を腫らしながら最後の頁を捲る。
はらり、と音もなく、風に煽られたのだろう桜の花びらが紙面に触れた。
ああ、その懺悔は、聞きたくなかったなぁ、お初。
「誰かのものになる、わたくしをお許しください。」
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