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「あの時は笑いそうになったな。犬にパンダなんて名前をつけるんだから」
その日から五年分老けた父が私に言う。
私は口を尖らせながら言い返した。
「可愛いじゃない、パンダ。今じゃあ、何も違和感ないでしょ?」
「そうだけどな。パンダにしても驚いただろうよ。僕は犬だけど、ってな」
父は湯呑みを傾けながら笑う。
その視線の先には丸めた毛布の上で眠るパンダと、そんな弱々しい背中を撫でる母の姿があった。
もうパンダに残された時間は少ない。
私は「残りの時間はご自宅で穏やかに過ごしてください」と言った獣医の表情を思い出す。パンダがうちに来た頃からお世話になっている獣医だ。
定期検診やパンダが体調を崩した時に会う程度の関係だったが、まるで家族を失うかのような表情だったな、と目頭が熱くなる。
そこで私は、もうお別れなんだな、と覚悟を決めた。
「パンダは苦しんでないかな?」
私がふと零すと、父は悲しみを飲み込んだように頷く。
「ああ、もう痛みは感じてないと獣医さんも言っていただろう」
それはつまり、体の感覚を失ったということだ。
穏やかなパンダの寝顔。それは苦しみから解き放たれたと同時に、この世とパンダを繋ぐものが消えゆくことを意味していた。
今はもう、何もかもが悲しい。
頭の中にはパンダとの思い出がモノクロで流れる。
「最初はさ、かなり怯えてたよね」
脈絡もなく、私が振り返った。
「そうだな。不健康なほど痩せていたし、首輪の跡が酷かった」
「やっぱり、前の飼い主がいてご飯もろくにもらえてなかったのかな。首輪だって子犬の頃から同じサイズのもので、首に食い込んでたんだろうし……」
「俺たちが出会う前のことなんかわからないけど、人間に対して恐怖を抱いていたのは確かだな。ほら、何をするのだってお伺いを立ててからだったろ?」
「うん。私の膝の上に乗るのだって、許可を出さないと目の前でウロウロするだけだったもんね」
パンダの体温と重みが恋しくなる。
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