(元依頼人に)ひっこぬかれる

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 そこまでされてなぜ千聖が立件しないかといえば、こちらは「それだけ鍛えておきながら男に犯されたなんて言えない」という筋肉男だからこその理由と、新山にすら言えなかった方の理由――普通のセックスでは物足りなくなったから――にあった。貴之以外で満足できなくなった体に、まだ三十一の性欲を持て余してしまった。そして最大の理由としては、貴之の言葉――ひいては貴之の姉との別れ方にあった。  そもそも貴之とは数度顔を合わせたことがあった。それなのに思い出せなかったのは、まさか事務所で会うとは思っていなかった以上に、彼女を忘れたくて記憶から抹消していたからだった。  高校までの千聖は細身だった。身長は中学時代よりも伸びたものの、肉はつかなかった。ひょろりとした体に、小さな顔に大きな目。栗毛色の髪。白い肌。髪が顎くらい長かったこともあって、千聖は名前の通り女の子に間違われていた。いじめられてからずっと自分なりに鍛えていたのに、実を結ぶことはなかった。  変化したのは大学からだ。カヌーやキャンプのサークルに入り、バイトで貯めた金でジムにも通い始めた。すると、徐々に筋肉がつき、日焼けし、男らしくなった。タレ目でタレ眉なところは変わらなかったが、体つきはたくましく、頼られることが増えた。髪も短く切って黒く染めると、どこからどう見ても男だった。いつの間にかいじめはなくなっていて、仲裁に入って止められるほどになった。誇らしかった。  それを彼女は否定した。ある日、昔の写真を偶然見た彼女は「こっちの方がいい」と言ったのだ。弟のような、貴之のような薄幸の美青年の方がいいと。積み上げてきた努力を踏みにじられた気がした。だから別れを決めた。記憶は封印した。彼女の弟として紹介された、貴之も一緒に。体は、さらに鍛えた。  そうして封じられた貴之は、最初に出会った三年前も今も変わらず「今の千聖さんがいい」と言う。頑張った証の今の千聖を愛していると言う。彼女とは真逆だった。コンプレックスを隠そうとした千聖を肯定してくれた。そこに、陥落した。  思えば姉の方はコンプレックス自体を肯定してくれたのかもしれない。ただ千聖は、努力を肯定してほしかった。肉のつきにくい体質でここまで変われた自分を評価してほしかった。残念ながら願いは届かず、貴之だけが、そちらをすべて評価してくれた。  頭脳は新山が評価してくれた。あとは体だった。昔と変われた自信がほしかった。それを、貴之はくれた。つくづく、悪い男にばかり捕まっている気がする。
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